聖護院 京極のブログ

天と地の間に新しいことなし(ことわざ)・・・人間の行動は今も昔も変わってはいない

ブランド品にこだわらない

 

 

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画像出典:買取王子


車とか服装やそれに伴うバッグ、時計など高級品はいくらでもあります。ピンからキリまであります。

わたしの子や妻、あるいは友人や親類などの中にも、高級品を持ちたがります。フランスやアメリカ、イタリアなど有名ブランドが安いと思えば、それ程の苦もなしに買います。わたしは、生まれが貧しかったせいか、そういうブランドものを欲しいとは少しも思わない。

 

「いいものは、高い。しかし、いいものはいい」

とか彼らは言っています。それは確かにその通りで、わたしのような姿や形がちょっと良ければ、それでそれ程吟味もせずに買ってしまうのとは、だいぶんに違っています。価格と造り、ブランド力を念入りに検討し、あきれる位に長考した挙句に、懐具合と照合の末大枚をはたくと言った塩梅です。

 

■ 安物買いの銭失い

確かに、安い物には安いだけの理由があります。その逆も然りでありましょう。しかし、ブランドものの高級バッグを持ったとしても、服装や装飾品、靴などにもそれなりに統一性がないと、バランスがとれません。

 

すると、どうしてもあれもこれもとブランド品志向になることになります。それも結構お金の工面が大変かとおもう。それに、つける人の品性も大切かも知れない。そう思うと、思い出したように買ってみようと思う気持ちは即座に萎えて、

『もう、ええわ』

と思うのです。

 

■ そこそこの物

そこで、まあブランド品とまではいかないでも、それなりにしっかりとしたいいものを持てばいいかなと思うのですが、わたしはそれさえもそれほどこだわらない。旅行に行った先で出歩く時のバッグがあればいいなあ、と思えばどこかのスーパーのカバン売場でそれ程に見てくれが悪いのでなければ、それでいいのです。

 

要は、機能的に問題がなければ、何も気にならない。

 

そのバッグが買えた、自分のものとなり実際に使えるのだったら、それだけでわたしは満足してしまう。それは、遠い子供の頃に欲しくても買って貰えずに、恨めし気に見ていたころの記憶に結びついていて、その頃は、人が持っている同じものでなくても、取り敢えずはそれなりに機能や見てくれが整って居れば、買って貰えただけで満足していた気持ちと変わらないのです。

 

妻や子を載せて、アウトレットモールで車の中で時間つぶしをしている時にも、

『あの店の数々にどんな夢があるのだろう』

と不思議でならない。

 

『安上がりな人』

と妻はいつも少し蔑んだ目で笑う。

京都から富士山が見える!?

 

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画像出典:nara-fuzisan


2012年の関西地方局のテレビ番組で、「京都から富士山が見える」という特集がありました。ある学者が地図上において綿密に検証すると、奇跡的に見える位置があるというのです。その学者はあくまで机上の計算での意見で、本人が実際に見た訳ではありませんでした。

 

その話にぼてじゃこのように食いついたのが在阪テレビ局であった。テレビ局は見えるとされる滋賀との境の山に深く入り、撮影を何度も試みました。しかし、成功はしませんでした。

勿論、その位置は山頂であり、誰でもが気軽に行けもしなければ、見える好条件が重ならないと見ることは不可能なので、一時は話題として燃え上がりましたが、アッという間に下火になり鎮火してしまいました。

ぼてじゃこはなんにでも食いつき、米粒でも簡単に釣れる魚で、滋賀県での呼称。タナゴの一種らしい。

 

■ その後

 その後、テレビ局は手詰まりとなりこの話題から撤退しました。しかし、その志というか意義に意気を感じて民間人が、根気よく撮影に挑戦しました。その結果、2014年9月に成功したという事でしたが、その画像でもどこが富士山なの素人にはまるで解りませんでした。

 

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画像出典:nara-fuzisan

上の実写映像が見えたあたりは、下の3Dの富士山の右側の頂部だそうです。

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画像出典:nara-fuzisan

■ 逆に富士山から

京都のその山が見える訳でもありますから、それも撮影に挑戦しましたが、これまたはるか過ぎて素人には、さっぱり分かりません。撮影されたらしい京都の山の山頂も

『ほんまですか-』

くらいでした。

 

ちなみに、奈良や和歌山からも富士山が見えるポイントはあるようですが、素人ではどうにも見定めようがありません。うーん、遠すぎる!

 

最近、非常に忙しく「貧乏暇なし」の状態でもあり、「貧乏カネなし」でもある事から、おカネに血眼を上げている次第です。従ってブログの更新が滞りがちになっています。暇な時を見て投稿したいと思っております。読者に置かれましては、相変わらずの程どうかよろしくお願いいたします。

 

フィラデルフィアの憂鬱(ゆううつ)

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画像出典:YouTube

 

アメリカ合衆国フィラデルフィアと言えば、大抵のひとは、

『聞いたことがあるなあ。どのへんだったけ?』

という返答が来ると思います。外国人が東京を知っていても、他の日本の都市には少し危うい知識しか持たないのと同様でしょう。

 

■ フィラデルフィア

その地は、冒頭の画像に記された通り、アメリカの東部でペンシルべニア州にあり、カナダの国境に近い都市です。人口がアメリカ国内でも6番目に多い都市です。ワシントンDCが出来るまでは、ここが首都であったこともあるのです。映画「ロッキー」の舞台となったことでも有名ですね。

 

しかし、治安の悪さでも有名ではありますが、ペンシルベニア州全土がそのような状態では勿論ありません。

 

冒頭の画像はそのフィラデルフィアの街の一角を撮影したものです。しかも、今年の事です。

この画像を見ると、左の若い女性は、まるで死人のように汚れた土の上に仰向けに寝ています。その横の若い女性二人にも生気はありません。この人たちをはじめ下の動画をまずはご覧いただければ、その悲惨な実態が何となく解るでしょう。

 

youtu.be

 

■ 一角ではある

このような惨状はフィラデルフィアとい都市の一角ではありますが、夥しい人が最早生きる気力もそれに必要なお金も持ち合わせて居ず、ドラッグと呼ばれるような、幻覚剤で日々の虚しさや惨めさ、苦しさから逃れているのです。

ゴミがあたりに点々とあり、州政府から雇われた掃除人が掃除をする。しかし、ゴミはいくらでも次々と発生して、追いついていません。

 

重大な犯罪が起きないように、警察の車が構えているが、検挙をする様子もありません。すでにお手上げなのです。

 

幻覚剤のいくつかの種類は、合法的に認められている州でもあります。それは、思うに取り締まれない程に拡散して、最早薬物の一部だけでも合法としなければ、使用者を検挙も覚束ない。たとえ禁止薬物であっても、それをいちいち確かめることもしません。それは、一部を合法化することで、行政は取り締まる煩雑さを免れたいだけなのです。

 

「類は友を呼ぶ」とでもいうのでしょうか。次々に人生をドロップアウトした人たちが集まって来るようです。

 

衛生観念もなく、夢も希望もない人生幻覚剤に逃れるしかないのかも知れません。人はあるいはこう言って非難するかも知れない。

『もっと、こうなる前にちゃんとした努力を怠ったからだ』

『人生を甘く見ているからだ』

或いは、

『働かないからだ』『意思が弱いからだ』

と。

 

■ 人生はちょっとしたことで転ぶ

しかし、ここに溢れた人たちは、何も最初からこの場所やこの生活を望んでいた訳ではないでしょう。それは、ちょっとした誤算、思い違い、時間のずれ、何とはないつまずきや軽度の失敗などがあって人生の歩みから転んでしまっただけの事なのです。

 

それは、本当にちょっとしたことがきっかけであったと思います。それが、悪い方に転がり続けたのかも知れない。不運が重なっただけかも知れない。

 

わたし達は、今日何事もなく平穏無事であり得たとしても、それは明日を約束するものではありません。明日になれば、どんでん返しに奈落に落ちる道に立っていることがあっても不思議ではありません。

 

この人たちを、他山の石として、自分の今を位置をしっかりと見つめて、いつ非常事態になるかも知れないことを肝に銘じて、日々を過ごしたいものです。

 

明日は我が身であるかも知れないのですから。

 

■ 冬が来る

この動画では、薄着でも過ごせる頃のものですが、これから冬が来ます。カナダの国境に近い州では、冬は厳しい。この人たちはそれを乗り越えて、来年の春まで、生き延びることが出来るでしょうか。

 

 

恙なしや?(平穏無事かい?)

 

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ツツガムシ
画像出典:河北新報

卒業式には必ず歌われる「蛍の光」は、スコットランド民謡の替え歌であることは、今でこそ広く知られるところです。しかし、石原慎太郎氏のエッセイなどを見ますと、氏の若い頃には、「蛍の光」は日本の歌だと氏が主張して論戦をしたというような事が書かれています。

 

■ 蛍の光

現在歌われる「蛍の光」は1から4番までの内の2番までです。これは、3と4番が軍国主義的歌詞となっているのを嫌ったものであろうかと思います。ここの因みとして3と4番をあげて見ます

 

3

筑紫(つくし)の極み 陸(みち)の奥
海山遠く 隔(へだ)つとも
その真心は 隔て無く
一つに尽くせ 国の為

4

千島(ちしま)の奥も 沖繩も
八洲(やしま)の内の 護(まも)りなり
至らん国に 勲(いさお)しく
努めよ我が兄(せ) 恙(つつが)無く

 

となります。今回わたしが取り上げたのは、何故、3と4番を歌わないのかという糾弾をしようという訳ではありません。確かに今の日本社会には似つかわしくない歌詞であるかも知れませんが、歌われないのは残念でもありますが、それは今回取り上げません。

 

■ 取り上げたいのは

4番の歌詞にの最後のフレーズに

「・・・恙(つつが)なく」(筆者色付きとした部分)

となっている部分です。この恙(つつが)なくとは今風に言い換えれば、

「平穏無事であれ」

ということになります。

この恙ないという言葉には、

『ツツガムシの被害に合って、苦しまないで』

という昔の挨拶言葉としても使われているという事になります。

 

無論、この主張には異論もあります。恙ないの恙(つつ)は病気を表す言葉で、ツツガムシとは関係ないという訳です。しかし、辞書で「恙」を引きますと、ツツガムシの事という風にも記載があり、語源はツツガムシから来ていると思われる。

 

それは、「ツツガムシ」という虫にかまれるとひどい目に合うことから、昔から(古い時代から)、「恙(つつが)なしや?」という今でいう「風邪などひいていませんか?」位の挨拶語となったのであります。勿論、風邪よりはもっとツツガムシにかまれれると深刻な事態になりますが。

 

■ ツツガムシ病

さて、長々しい前書きからようやく本題に入ります。

最近の日本に於いて、ツツガムシに噛まれる事例が多発しているとのことです。下記の記事は河北新報のウェブサイトの引用(色付き文字と画像)になります。

 

かさぶたのような刺し口 「つつが虫病」今も死者

 

ツツガムシに刺された傷口(青森県保健衛生課提供)

 
山形県白鷹町で採取されたヒゲツツガムシの顕微鏡写真(山形県衛生研究所提供)

 感染症「つつが虫病」の患者が5月上旬、宮城県で確認された。つつが虫病はかつて北日本日本海側で見られる風土病だったが、今は北海道、沖縄を除く全国で発生。年間300~500人が発症し、数人が亡くなっている。

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画像出典:河北新報

山形県衛生研究所によると、つつが虫病は病原体(リケッチア)を持つツツガムシの幼虫に刺されることで発症する。ツツガムシは体長0・2~0・5ミリで、山林や原野、河川敷などに生息する。
 刺されるのは、衣服で隠れた皮膚の柔らかい部分が多い。5~14日程度の潜伏期間を経て38~40度の高熱、全身の倦怠(けんたい)感、頭痛など風邪のような症状が現れる。
 発熱から2~5日後には、全身に粟(あわ)粒ほどの赤い発疹が広がり、刺された部分に近いリンパ節が腫れる。刺し口には1センチほどのかさぶたができる。
 抗生物質が効き、早期に治療すれば完全に回復するが、治療が遅れると死に至ることがある。有効なワクチンは開発されていない。

 

ということです。最近では、わたしは軽装で釣りをしていてマダニに噛まれて、往生しましたが、マダニよりツツガムシに噛まれる方が、症状は深刻です。お気お付けを。

 

人を好きになることは誰にも止められない

 

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画像出典:東洋経済オンライン


未婚者が既婚者のいづれかの異性に恋をする、またはその逆の関係であるとか、あるいはどちらも既婚者でありながら他の既婚者の異性に引かれる、というようなことは日常的によくあり得ることであります。

それらは、今の社会には倫理に反すると非難されるものではあります。しかし他人を恋をするということは、自然発生し誰にも押しとどめることが出来ません。

 

■ 割符(わりふ)

人は、人生を歩んで行く時、自分に好適であると思う異性へのイメージを心に割符のように持っているものです。

ここでいう割符は神のみぞ知る事柄で、いつどこで異性に邂逅するかは、誰にも知る由もありません。しかし、もし自分の割符に合うもう異性を接すると、自分が思い描いていたものであると瞬時に知れるものです。

それは、目と目があった瞬間に体の中を電流が駆け抜けるような思いがする筈です。ですが、それはいつそうなるかは、だれも知ることは出来ません。

 

 割符(わりふ)

木片や竹片などに証拠となる文字などをしるし、それを二つに分割したもの。木の札などに文句・文字などを書き、中央に証印を押し、これを二つに分けたもの。当事者どうしが別々に所有し、後日その半分ずつを合わせて正当な当事者であることの証拠とした。

 

■ 今の夫婦は偽りなのか

では、現在結婚し夫婦として暮らしている人は、互いに割符を持ってそれが合わさって結ばれたのでなかったのでしょうか?それは、そうとも言えない。

 

自身の周りに自分にピッタリと合う相思相愛の人が現れそうにもない、そういう人をいつまでも待ってはいられない。という思いがあります。恋焦がれる程ではないものの、相手に不足もなければ嫌いでもない、むしろ好きな方であるという程度で結婚とは、実はしている人は少なくない。

また、相思相愛で困難を乗り越えて結ばれた者同士が、その後においても固く愛を育てていくとも限りません。むしろ

「遂わばなんの恋の味」(相思相愛で結ばれても結ばれてしまえば、それ程でもない)

と、ならないとも限りません。

 

■ 既婚の夫婦の浮気

既婚の夫婦の一方が違う異性に恋をするという場合、既婚の夫婦のどちらであっても、夫または妻は、違う異性を許せないと思うものです。

例えば、ある夫婦の夫が違う異性に恋心を抱いて、付き合いだすというような場合です。夫の方が先に相手に言い寄っているのですから、元と言えば夫の方が先に責められるべきです。

 

ところが、この夫の妻は夫を責めはしますがホンの少しです。夫より相手の異性(この場合は女性)に矛先は向かいます。何故でしょうか。

 

①夫の浮気を妻が認めれば、それは妻に魅力がなくなったという査証になる。

②夫を責めると夫は妻から離れて行く可能性がある。

が考えられます。

妻は、相手の異性(女性)を夫から引き離すしかないと考えに終着点を見つけます。それは、どのような手段であろうともです。相手の出方次第では、殺意が湧くこともあるでしょう。殺意は衝動的というより最終手段と肚を決めることになるのでしょう。

 

人の愛憎は、おぞましいものですね。

 

何という女性作家か失念しましたが、

『夫が他の人に恋に深くなったら、わたしならその女性の魅力に負けたと思い、夫を差し上げるわ』

と言ったことを今でも、素晴らしいと思ってしまう。

自分自身の才能に希望を持つ

 

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ニーチェ

画像出典:ルークス



人生を長く生きていますと、つくづく実感するのは、「良いことは長く続かない」であります。そう、人生の大半は苦難の道のりで、個人に差はあるにせよ幸運な日々というものは、殆どの場合僅かでしかありません。

 

良いこととは、将来に対する自身や子供に望める明るい希望や収入が順調に伸びるような時の事であります。

 

■ 良いことが少し続くと

人は良いことが少しの間でも続くと、それが末永く続くと信じたがるものです。信じたがることと、実際にそうなる事とは山と谷程の落差があって、信じたものが儚く終わることが殆どです。

 

しかし、人は明るい希望が何もないままで生きて行くにはあまりに辛く、余りにも悲しいので僅かな明るい希望であっても、それを長く続くものと信じたい、ということになるのでしょうか。

 

その僅かな希望がへし折れても、それでもう希望を持たないままでいるのかと言えば、人はまた新たなる希望を持てるものでもあります。それを生涯に渡り繰り返すこととなるのでしょう。

 

■ 希望だけがあった

よく言われる言葉に、

「昭和の時代には、何もなかったが、希望だけはあった」

と。何もなかったとは、語るほどに何もなかった訳ではありません。今ほどの溢れかえる生活用品や書籍、音楽、映像には恵まれていなかったという程の事です。それが、個人の努力や働きによって、会社での地位や収入の拡大が将来にわたり望めたのです。

 

今は、貧しくて苦しくても個人の努力で豊かな生活を作ることが望めたのです。

 

■ 今は

今は、周りに溢れる家電製品は豊かではありますが、しかし、一体どんなことで将来に希望が持てるでしょうか。

それが、今の社会では誰も描くことが出来ないでいます。日本だけでなく、先進国と呼ばれる国においては共通した事柄であります。

 

■ 個人の才能を伸ばす

こういう時代には、わたしは個人の才能を引っ張り出す、自身の努力に希望を持つことは出来ると思います。こういうと、

『俺には何の才能もない』

と反論されるかも知れない。しかし、才能は人の数だけあります。それを見つけて引き出せるのは、恐らく平凡な人であれば、自分自身であるほかはいません。見つけられても、たかが知れているということで、戦う前から敗戦しているということになるかも知れません。

 

しかも同じ分野にたくさんの才能の有る人があって、自分の才能が、活かされるかどうかは未知数でしょう。しかし、決して希望を捨てることなく努力を続けて行けば、いつかは希望は、実現すると信じたい。

 

それは、いつかであって今の努力と希望が何十年もの間一度も日の目を見ない、大方60歳過ぎにやっと目鼻立ちが付くというような事であるかも知れません。しかし、自身の才能を信じて努力する、今の時代には自身に希望を持つことが一番大事であろうと思うのです。

 

「自らの立つ位置を深く掘り下げて行けばいずくにも泉湧くべし」(ニーチェのことば)

があります。

「自分の才能を信じて、それに磨きをかけてへこたれることなく努力すれば、溢れる泉のように開花する」とでもいえばいいでしょうか。何より自分の才能を信じて努力し、続けること。こんな閉塞感のある時代であるからこそ、非凡に、毎日を自らの才能のために生きてみようではありませんか。

 

免許更新時の「交通安全協会費」は任意である

 

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画像出典:京都府安全協会


自動車の運転免許更新に行ってきました。

一番心配だったのは視力。年々落ちているように思えたからです。

従って、前日から出来るだけ目を使わないようにしたり、目薬を差したりして一時的にせよ、免許更新時に視力不足で通らないというような事がないようと目を休めておりました。

 

■ 交通安全協会

運転免許の更新手続きは、更新所の一連の流れに沿って進めて行くようになっています。それは窓口に番号が付されており、1から順番に進んで手続きを踏むというものです。その一つの番号に、「交通安全協会」への窓口への誘導も組み込まれています。

『次は5番の窓口に進んでください』

などと4番の窓口で指示されるので、当窓口に行くしかありません。そこに行くと、

『ご苦労様です。暑いですね。(資料をみながら)資料はちゃんとそろっていますね。次の更新は5年後になります。』

などと、柔らかな語り口調を立て板に水を流すように次々と発して、最後に

交通安全協会の活動に賛同いただけますか?』

と聞かれる。そこで、

『はい』

と訳の分からないまま、賛意を発しますと、

『では、2000円頂戴します』

とすかさず請求される。仕方なしにお金を出す。免許更新ハガキにはその金額は書かれていないではないか。それなのに、、、

となってしまう。がもう遅い。後ろに並んだ人もいるのでつい払ってしまう。

 

■ 前回まで

前回までの運転免許更新手続きには、このような交通安全協会の窓口の巧妙?な話術に載せられて、交通安全協会費を支払っていました。しかし、どうもその協会費の明確な収支報告が公知されているようにも思えない。

 

そこで、今回はそういう

交通安全協会の活動に賛同いただけますか?』

と聞かれたら、断ろうと考えていました。

どういう名分で断るるのが良いのか。

『協会の活動の資金の使われ方が不明瞭であり、拒否します』

とストレートに言えば良いかもしれない。しかし、その場で悶着もあるかも知れないし、手続きの進行が遅れるかも知れないと思い

『生活が苦しいので支払えません』

ということにした。

 

■ 交通安全協会費の支払いは任意

そんな言い訳をしなくても、

『任意なので支払いません』

でもよかったと、拒否して支払わなかった後で思いました。つまりのところ、わたしは支払い拒否をしました。2000円は高いと思えた。

 

相手も、「ああそうですか。じゃあ結構です」とは簡単には折れず、

『お住いの地域にもわたしたちは活動しています。ご理解いただけませんか?』

と粘られる。しかし、断固断る決心は揺るがず、

『無理です』

と返し沈黙。すると、

『無理ですか。じゃあ次は6番の窓口へ進んでください』

と諦めた様子でした。多少の引け目も感じはしましたが、これでよかったとおもう。わたしのような人が増えると問題になるでしょう。見直す良い機会になると思います。

 

■ 交通安全協会に入会してよいことはあるのか

交通安全協会に入会料金を支払って良いことはあるのか。

と言えば、

① ベビーカーが期間限定で無料で借りられる。

② 交通事故でけがをして入院すると3万円もらえる。

③ 提携店で割引が使える

④ グリーンのペラペラの免許いれがもらえる。(使う人はいないだろうね)

 

程度の事でありますが、地域によって違うようです。

見舞金がもらえるのは少しも知りませんでした。まあ、そのようなことを大々的に広報していませんので大抵の人が知らないでしょう。

 

次回も入会しません。と今から決心しております。

男はいざという時に役に立てば良い

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大石内蔵助(良雄)

画像出典:Wikipedia


男というものは平時は、どうしようもないような人間であってもいいというは過去も今も将来も変わらい。どうしようもないというのは少し語弊があるかも知れない。

例えば、ボーとしていて何を考えているのかも知れん。酒飲みで、女にだらしない、しゃっきとした身形(みなり)をしている訳でもない、不愛想に無精ひげも伸びている。いかにも見苦しい。家族は、半ば蔑み半ば呆れている。

 

そのようであったとしても、男はここぞという時には、先頭に立って家族や家庭を守る。会社や友人を助ける。そういう事が出来ればそれでいいのです。そこで、思いだすのは「昼行燈(ひるあんどん)と言われた大石内蔵助です。

 

注)昼あんどん

昼間に点灯している行灯のように、うすぼんやりしている状態。 特に、そのようにぼんやりして役に立たない人を形容していう表現。

 

■ 大石内蔵助

あの「忠臣蔵」の立役者である大石内蔵助です。彼は平時は何をやってもダメ男で、酒にまみれ、女性にだらしない人物であったと言われています。しかし、松の廊下での刃傷の以前から、交渉事では唯ならぬ手腕を発揮したともいわれていました。

 

刃傷沙汰後、様々なお家存続のための努力空しく、浅野家お家取り潰しとなり、仇討ちへと進みます。彼が藩士をまとめ上げて討ち入りまで持って行けたのは、いざという時には抜群に切れる頭と度胸と交渉をまとめ上げる才能がありました。

この才能は、生まれつきのものではなく、昼行燈である時から、幕府や浅野藩に対する鋭い観察があったのでありましょう。

 

元々、大石は刃傷沙汰を穏便に済ましたかったのです。しかし、それも叶わず討ち入りを決心したようですが、これには背後に天皇家後押しがあったとされています。

『仇討ちをするなら、協力するよ』

という風に。

それは、討ち入り決行まで進めるにあたり、裏方としての協力があったと言われています。浅野家は天皇家との繋がりが特に強かった。そのため幕府の反感はもともとありました。吉良の内匠頭への嫌がらせもその一環であったようです。

 

たとえ、天皇家の助力があったにせよ、大石内蔵助が最後まで成し遂げたことは、自分の命を引き換えても成し遂げるまでの固い決意があったからで、わたし達もここまで大ごとには対処できないまでも、いざとなれば、どんなことであろうとも対応できる知識と情勢を判断できる見分、度胸を平時から涵養することが大切でありましょう。

 

 

いつでも、死ぬ覚悟が出来ていれば、大抵の事は成し遂げられるものであります。

 

 

口癖(くちぐせ)

 

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画像出典:スポランド


全国高校野球甲子園大会を観戦していますと、テレビの実況中継にはアナウンサーと解説者の最低二人一組がいます。解説者はまた、二人になることもありますが、通常は一人です。

 

その大会の審判や解説者は民間のボランティアです。社会人野球の監督経験者や高校野球で優勝経験のある人もいます。

 

■ 口癖

ここで面白のは解説者の口癖です。人は、「なくて七癖」と言われるように人にはちょっとした他人にはすこし気になる癖があります。ここでは解説者の口癖もその一つでしょうか。

 

ある解説者の口癖は、

『やはり、大切なのは繋ぐことです』

とか、

『やはり、バントでしたね』

という風に、「やはり」という言葉が頻繁に出てきます。

その解説者をわたしと妻は見知っているのですが。普段では、そのような口癖はテレビで見る程気にしたことはありません。普段は野球の解説風に話はしないのであり得ないのかもしれない。

しかし、わたしのよく話す人でも、この解説者ではないけれども気に留まるような口癖の人を知りません。解説者になると口癖を作ってしまうのかも知れませんね。

 

この『やはり』の解説者は、京都の住まいの人なので、全国高校野球甲子園大会の解説には、かなりの多さで出演している。

昨日もそうで、わたしが

『解説には「やはり」は出ているかい?』

と出番を妻に確かめますと、妻も心得たもので

『「やはり」は次の試合で解説するでー』

てな具合です。するとわたしも茶化して

『やはり、今日も解説するのか』

などいうもおかしであります。

 

本日の全国高校野球甲子園大会には、「やはり」とは違う人が、解説していて、その人は

『やっぱり、○〇でしょうか』

でした。この人も「やっぱり」がやっぱり多かった。

効いていた薬が効き目がなくなる理由

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画像出典:筑波大学

 

これまで効いていた薬が、効き目がなくなるとしたら、その病気に対する治療法は著しく低下します。あるいは、その薬だけが救いの手であったとしたら、その人は死を待つばかりということになってしいます。

 

こいうことは、近年にはよく聞くようになりました。しかし放って置くわけには行きません。そこで、何故、薬が効かなくなったのかを筑波大から研究発表がありました。それが下記の色付き記事です。

 

■ 大雑把にいえば

この記事を非常に大雑把で簡略的にいえば、冒頭の画像の右側の一見したところ芝生のように見える部分(人工的に着色してはいるのですが)はバリアの様な働きがある「微生物集団」です。

 

投薬で殆どが死滅したものの、生き残った病原菌はこの「微生物集団」に逃げ込みます。すると、この集団にまみれて本来効いていた薬が、病原菌に直接に届かなくなるのです。そして繁殖し人体に悪さをするという訳です。

これが、効いていた薬が効かない現象で、主に抗生物質でよくみられる現象です。

 

■ 微生物集団をやっつける

そこで、今回の研究発表では、投薬して来た薬ではなく、「微生物集団」を取り除く方法を研究し発見。「微生物集団」という隠れ家を破壊すれば、病原菌は丸裸となり、今までの薬でも治療は可能となる訳です。

「微生物集団」を除去するのは「酵母由来の界面活性剤であるソホロ脂質」という物質なのだそうです。

まだ、これからいくつもの安全性の確認は必要ですが、投薬を受けて来た人には朗報かと思います。

 

 耐性菌を防ぎつつ人体や環境に有害な微生物集団を除去する方法を発見

~生物由来の界面活性剤を組み合わせて除去効率が向上~

 

  • 酵母由来の界面活性剤であるソホロ脂質が、細菌を死滅させることなく、細菌が形成する微生物集団(バイオフィルム)を除去できることを発見しました。
  • また、ソホロ脂質と一般的な界面活性剤であるドデシル硫酸ナトリウムを組み合わせることによって、その除去効率が100倍以上向上することも見いだしました。
  • 環境負荷の低い生物由来の界面活性剤と、石油化学製品である従来の界面活性剤との組み合わせによる相乗効果の発見は、人体や環境に有害なバイオフィルム除去におけるコストおよび界面活性剤使用量の削減に貢献することが期待されます