その日も終わろうとする夜中に、けたたましい救急車の音が遠くから聞こえてきました。それは、その後大抵の場合で、それ以上に大きくならずに、次第に遠ざかって行くのが常でした。
しかし、その日はそうはならず、救急車のサイレンの音は、次第に高まって来てわたしの家の前の南北に延びる道を半ば程度入って来た頃には、思わず通りに出ようかと思う程にけたたましかった。
急にそれは途絶え、どこかの家の前に停まったようでした。わたしは、自室にいて、町内の誰かの体の具合悪くなったのかなと、少しは窓から覗いて見たい気もしたけれど、何だか野次馬根性のような気がして止めた。
このように、わたしの周りの町内の人が、救急車で運ばれることは頻繁ではないものの、これまでから何度かはある事でした。もう結構な歳の老人がいる家とか、体の不自由な中年夫婦という家の前であることが多かった。
窓から覗いたり、家の外に出て見たりしようとするわたしの心を制止したのは、恐らく、階下の妻がそれをやるであろうと思ったからでもありました。
■ 案の定
案の定、妻は家から通りに出て見て来て、様子をつぶさにしたらしく、わたしのいる二階の部屋に来て、
『○〇さんの家の前に停まっているけど、ご主人かなあ。暗いから分からん』
と首を傾げました。その○〇さんは、3年程前に引っ越してきた60歳代半ばの夫婦二人切りで、わたしの家にも当時挨拶に来た。
『いやあ、奥さんじゃないのか?ご主人はよく見かけるけれど、奥さんは見ないから』
とわたしは答えながら、ベランダに出て干しものをしている主人の姿を、感心しながら思い出していました。
暫くして、急にびっくりする大きなサイレン音を出して、どうやら救急車が動き出したようでした。搬送先の病院が決定したのでしょう。次第に救急車のサイレンの音は弱くなって、何時しかまるで聞こえなくなりました。それで、すぐさまそのことは頭の中から消えてしまって、家族での話題にもなりません。
凡そ他人の出来事などというものは、誰でも興味の対象程度の事に過ぎないものです。余程の繋がりがなければ、救急車が家の前に停まったところで、それが去って行けばもうすぐさま忘れてしまっているものです。なんと、薄情な事でしょうね。
■ 十日ほどして
それから、十日間ほどはその夫婦のいずれも見かけませんでした。
けれども、その後、夫人の方がまるで夢遊病者の様に生気のない動きで、ガレージの掃除をしているのを見かけることがありました。帽子を目深に被りマスクをしているので、表情は伺えない。
すると運ばれたのは主人の方だったのだろか?夫人と目が会えば、それとなしに聞けなくもない。しかし、いつもうつ向いて覇気がないので、用もないのにこちらから声を掛け辛くもあり、いまだにそのままとなっている。
ガレージに軽乗用車があったのが、ここ数日は無くなっている。車検に出ているのかも知れないが、何か気にかかる。
■ いずれ
いずれわたしも、いつかは救急車でもって病院に運ばれめでたくご臨終になるのだろうなと思ったりする。それを、妻と娘に言うと、
『死ぬ々々という人は案外死なない。言うだけの詐欺』
『早く死ぬ人は良い人。だから大丈夫』
などと、減らず口をきかれる。まあ、もう少しは生きるだろう。知らんけど。