聖護院 京極のブログ

天と地の間に新しいことなし(ことわざ)・・・人間の行動は今も昔も変わってはいない

それでもパチンコはやめられない

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画像出典:共同通信社

大阪のパチンコ店「変わらない」 店名公表も大勢の客集まる

 

4/25(土) 10:50配信 共同通信社

大阪府新型コロナウイルス特別措置法に基づき店名を公表したパチンコ店には、一夜明けた25日も午前中から大勢の客が集まった。府は感染拡大を防ぐため利用を控えるよう求めたが、店の駐車場には車が並び、常連客からは「いつもと変わらない」との声が上がった。(引用ここまで)

(全文は下記のサイトへどうぞ)

 

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200425-00000060-kyodonews-soci.view-000

 

わたしも一時期パチンコに嵌ってしまったことがありました。当時、少ない収入を殆どそれにつぎ込んでいました。今は、少しもやりたいとは思いませんが。

 

パチンコに嵌る人は、私の経験から誤解を恐れずに言えば、低収入の人が多いと思う。私がそうでした。苦労して一か月働いても、一人で食っていくのにカツカツの生活でした。もっと収入が欲しいと望んでも、もうこれ以上に働くことは日々の疲れで困難で、一人の住まいに帰れば、ぐったりと横になるだけでした。

 

ある時、友人との待ち合わせの僅かな合間にふらっとパチンコを打つことがありました。10分程度暇つぶしのつもりだったのです。しかし、何故かこういう時に限ってパチンコは良く出るという事が多いものなのです。

 

わたしの場合もそうでした。たった数百円で大当たりが出たのです。大当たりが出て、まだ続きの大当たりが期待できる状況です。しかし、もう友人との約束の時間は少し過ぎています。本来ならここで降りるべきでしょう。しかし、わたしは尚打ち続けました。

 

結局、その時大勝ちをして店を出ました。友人には嘘を言って約束の時間の遅れを謝りました。友人は、気持ちよく受け入れてくれはしましたが、わたしの気まずさはその後もずっと尾を引いたものです。

 

このようにして、それから私は一人暮らしの寂しさと、一人部屋にいる切なさ、そして何より収入の少なさに苦しむ日々が続いていました。あるいは少ないながらも、節約して幾ばくかの貯金も出来たのかも知れません。しかし、その時の若さでは、「ちりも積もれば山となる」の言葉を受け入れる事は出来ませんでした。

 

こんな端(はした)金なんぞ要らん。もっとザックと金が欲しい。

しかし、そんなわたしには地位もなければ技術や技量もありません。ザックとお金が入るあてなど何もないのです。このままでは、女の子と付き合うお金もありません、付き合えばその時に支払った金がその月の自由になる金の半分もなくなってしまいます。そんな状況下では、結婚など夢空の出来事に思えました。

 

『えい、くそ!』

 

もうわたしの足はパチンコ屋に向いていました。この間勝てたあの時のうれしさが、脳裏に浮かびます。

 

『今日も、勝ってやる』

 

しかし、このように意気込んで、しかも充分に時間のある時に限ってあっという間もなく、持ち込んだお金は底をつき、気が付けばこの間勝ったお金をはるかに超えて負けていました。

 

『えい、くそ!』

わたしは、私自身にもパチンコ屋にも、そしてまたパチンコをしてしまったことにも、怒りをもって後悔することとなるのです。もう、これ以上は食っていけないのでパチンコに注ぎ込むことは出来ません。

 

そのあとの給料日、わたしはまた、パチンコ屋にいました。いつもの顔ぶれがいます。負けて玉を買い増す時に顔を合わす時のバツの悪さ。しかし、今日は何故か勝てそうな気がします。ギャンブルをやる人の想いは何故か

 

『今日は勝てそうな気がする』に共通しています。

 

それなのに、やっぱり今日も負けて終いました。負け始めると、パチンコ台の選びに慎重だったやり始めの頃とは打って変わってどうでもよくなります。もう今日負けている分を到底取り戻せない。それは判っているのに止めて終うことが出来ません。惰性というか、やけというべきか。

 

打ち方もぞんざいになり、次々とお金が消えていきます。そこに至っても尚、打ち続けます。この先の自分の生活の苦難への想像。このお金があれば、おいしいものが食べられたであろうことなどが、脳裏を走馬灯のように浮かびます。

 

結局、わたしは煙草を買うお金すらも使ってしまいました。帰れば、シケモクを吸うしかありません。

 

こんなにまでしても、わたしはパチンコを止めることが出来ませんでした。それは、自分の社会的な立ち位置、収入の低さ、生活の苦しさ、そして、ここがもっとも大事なところである、将来への希望がないことがいつも、心の重しとなっていたからです。

 

せめて、将来に希望が持てたなら。しかし、それはわたし自身が努力する以外に何も方法はないということも判っていました。どんな努力を何にするのか。わたしには、人に打ち勝つ技術も学歴もないのです。

 

ないのなら、作り出すしかありません。努力するしかありません。

 

感染症の蔓延の今でも、パチンコに行こうという人の気持ちが、わたしにはなんだか分かる気がします。かつての私の姿と重なるものがあります。彼らも、かつてのわたしと同様に、その表情とは裏腹に、自身に葛藤を抱えながら、打開できないまま、もがき苦しんでいると思うのです。

 

感染症にかかるなら罹ればいい、それで重篤になる、そして死んでしまうかも知れない。そうなったっていい、彼らの想いは刹那にしかありません。

 

けれども、本当に死んだっていい、とは思ってもいないと思います。ただ、人生に投げやりになっているだけです。止めるだけの生きがいがないだけです。こういう人は、案外に生き方の方向性さえ明確になえば、そちらの方向に他のパチンコをしない人より一層、いちずに進んで行けるとわたしは思うのです。

 

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しかし、わたしは煙草もパチンコも何とか脱却出来ました。今では、パチンコ屋さんの前を通っても、やりたいとも思いません。まるで思い入れがありません。

 

どの様にして脱却できたのかは、この先機会を見つけて書いてみたいと思います。