わたしはかつて四畳半一間に住んでいました。もちろん、独りで。その部屋は洋室で、半畳分の広さに該当する部分は、流し台とガス台が占めていましたので、実質に使える広さは四畳でした。
■ 「畳」か「帖」か
早速、脱線ですが。どちらも「じょう」と読みます。
洋室は、畳が敷いてあるわけではありませんから、広さを「畳(じょう)」で表すのは誤りです。しかし、何平米といわれるより、「畳」で聞いた方がずっと理解しやすいので、不動産広告などでも、「洋 4.5帖」などと書いている場合が多いですね。
この時の「帖」は「畳」ではないのですが、意味合いは同じで、帖の方が、小さな活字でもつぶれたりしないことや、畳(たたみ)を連想させる「畳(じょう)」を敢えて使わないのだとか言われています。もっとも、和室であっても「帖」を使っていますが。
■ 押入れなし
話を元に戻します。わたしの住んでいた四畳半の洋室には、押し入れも物入もありませんでした。少し高い目のベッドがあるきりです。そのベッドの脚が太い角材で補強されて、嵩上げ(かさあげ)されて、その下が物入の代用場所となっていました。
嵩上げされているために、通常のベッドのように椅子やソファーのように気軽に腰を落とせません。その上、わたしは小柄なのでベッドに腰を下ろすと15㎝位足の裏が浮いてしまいます。
ベッドは、二方向が壁の隅に置かれており、残った二方向のベッドの脚にカーテンレールとカーテンが付いていました。目隠しのために一応の区切りが設けられていたわけです。
■ 部屋の窓
部屋には、窓が二か所ありました。入口のドアがある、廊下に面した部分の壁に一つ。ここは、廊下越しにぼんやりとした明りがさしますが、年中、陽差しが差し込むことはありません。
今一つは、ベッドの真横で、開けて寝ているとベッドから屋外に落ちてしまうほどの窓下が来ていました。この窓は、なくても全く問題がありませんでした。なぜなら、20㎝先に隣家の外壁が迫っていましたから。換気も悪く陽もさしません。
■ 入口はドア
部屋への入り口はドアで、部屋の外側に開くことになっていました。そしてドアを開けて入ったところが、部屋の床より一段下がった、靴脱ぎ場で30㎝角くらいしかありませんでした。人が二人、靴を脱げば目一杯です。
■ 入口のドアの隙間
入口のドアが全体が短かったのか、それとも、ドアの取り付けを高くしすぎたのかわかりませんが、5-6㎝程度のドア下が開いており、そこから廊下の空気が常時侵入してきて、換気は不要ですが、冬はたまったものではありません。
そのドア下の空きは、わたしの部屋だけのことで、他の貸し部屋は、隙間などありませんでした。部屋代が格安だったのはそんなことも理由だったのかも知れません。
部屋には、台所にプロパンガスが引かれていました。寒い冬には、小さなガスコンロを燃やして暖を取るのが常でした。
ある日、これを消すのを忘れて朝出て、夕方帰るとまだ通常の炎を上げて燃えておりました。ドア下の隙間が換気の役目をしたのであろうと、天の助けがあったと思えたものです。
『ガス代今月異常に多いけど、何かあった?』と大家さんが、聞きました。もちろん正直には答えませんでしたが。
■ 靴脱ぎ場
廊下の幅が、75㎝と住宅の廊下程しかなく、しかも屋根があるものの、雨の吹き降りの日には、よくびしょ濡れになりました。そういうことは、年に何度もあって、その雨水がわたしの部屋にも侵入し、靴脱ぎ場に溜まることになります。
そういう時は、わたしの靴は船のようにプカプカと浮いて、吹き込んだ風で移動したりもしました。
■ お隣の部屋
わたしは、3室ある部屋の真ん中の部屋で、両隣の部屋は男性らしかったのですが、数年間住んでいて、一度も顔を合わせたことはありません。一方の部屋には、彼女らしい人が来て、笑い声や話し声が聞こえますが、それがどんな話なのかは判然としません。それが、却ってイライラしたものです。
■ 風呂
風呂は銭湯で、歩いて数分のところ。暑い夏、寒い冬は行くのが億劫でした。部屋にエアコンなどというものもなく、今から思うとよく生存出来たなと思います。人間も、ないとなれば何とかなるものです。死んでしまうわけではありません。
■ テレビなし
テレビは今のように安く買えず、兄の使い古しをもらってみていましたが、やがて壊れてしまい。テレビも携帯もな生活です。単行本を買ってきては、暇をつぶしていました。
■ 洗濯機
一番の問題は洗濯機が共同のものがあったのですが、故障しており使えません。そこで、小さなポリバケツ程の洗濯機を買いました。今はこのような小さな洗濯機を見たことはありません。
流しの槽の中において回すのですが、パンツなら3枚が限度、カッターシャツやTシャツなら1枚を入れ且つ、渦巻き水流を人差し指で補助が必要でした。そうでないと、洗い物が回らないのです。のちに、手洗いに変えました。
この貸し部屋の建物を建てたのは、実は今の友人で、今でもこの話をします。
つい、この間懐かしくなり、行ってみましたら、再開発で様変わりとなり、道も新たに付けられて住んでいた家の場所すら特定できませんでした。