釣り師「やっさん」は無名の釣り名人で、わたしの二つ年上でした。一度も「師匠」などと呼んだことはありません。そういう言葉すらも知らない年ごろでありました。
後年、私が命名しただけのことで、彼をそのように評価している人間は、わたしの他には誰もいなかったでしょう。ただし本人がどう思っているかは別にして。
しかし、わたしの心の中では、「やっさん」は燦然と輝いている「釣り師」だったのです。小さな山間の村の小さな川へ、彼が釣り糸を垂れると、不思議の釣れるのです。何時しかわたしは、彼のことを釣りの名人として、崇めるに至ったのは至極当然の成り行きでした。
わたしも釣り好きな少年でしたので、彼の釣りの極意というようなものが知りたくてなりませんでしたが、「やっさん」とは殆ど会話を持ったことのなく、少し取っつき難(にく)い少年のようでありました。
■ やっさんに声を掛ける
どうしてもやっさんの釣の極意が知りたくて、ある日ついに決心して声を掛けることにしました。彼は、ほぼ毎日、釣りをしていましたので、チャンスはいくらでもあったのです。残されているのは、わたしの勇気だけのことでした。
彼と同じように釣り具を持って、いかにもすれ違うかのように彼に近づき、
『釣れる?の?』
とドキドキして尋ねました。どんな風な反応があるのか、布団の中でも心配でした。
すると、
『うん』
彼は意外に穏やかにたれ糸を見たまま、振り向かずに答えました。その、穏やかさに勇気づけられて、
『餌は何なん?』
と尋ねました。そうすると今度はわたしの顔をマジマジと見つめて、虫かごをわたしの顔のところまで上げて見せました。それは、川の浅瀬に入り、石をひっくり返すといる、ヒゲナガカワトビケラの幼虫クロカワムシでした。
『なんや、おんなじやー』
とわたしは思わず声を上げました。それに日焼けした顔の「やっさん」はにこりとして、
『これだけやない。草の中の飛蝗(ばった)も使う。ミミズもな』
そうしているうちにも彼は数匹を吊り上げました。手慣れたさばきで、バケツに放り込みます。バケツには、大小の幾匹もが入っていましたが、大半が死にかけていました。
そして、わたしの方を見てニヤリとして見せました。
■ 釣り針も加工
彼は、わたしと同じ針を同じ店で買っていましたが、わたしが買ったままで使っていたのに対して、彼は自分で釣れるような形状に変えているようでした。道具というものは本来、買ったままで使うのではなく自分で使いやすくするものかも知れません。
なぜ彼が釣り針を加工しているかと分かったのか?
といえば、彼が笑った時に覗いた彼の歯が、まるで欠けた歯だらけの斧(おの)のようにボロボロになっていたからです。
自分の歯を、今でいえばペンチやラジオペンチの代用として使っているらしかったのです。それは、わたしの父も、彼の歯がボロボロであることを、何かの話から出て聞いていました。
■ やっさんの弟子になる
わたしは以降、「やっさん」の弟子になりました。とはいっても、わたしが正式に弟子入りを願い出た訳ではありませんし、彼が弟子にしてやるとしたのでもありません。
わたしは、学校から帰った後や、休みの時に彼の姿を見かけたら、急いで彼の元に行き、エサ入れや釣った魚を入れて置くブリキのバケツなどを自発的に持つようになりました。それに対して、「やっさん」は嫌がるでもなく、喜ぶでもありません。
ただ、自然にそのような体制になったのでした。
■ いろいろ釣り方を学ぶ
いろいろ、そういう中で、「やっさん」は釣り方をさりげなく教えてくれました。というか、要するにわたしの見習いであった訳で、ここではこのようにするなどということは一度も教示されませんでした。
■ 釣りをしなくなる
彼は中学になり、何時しかまるで釣りをしなくなっていました。殆ど同時期にわたしも釣りをやめてしまいました。その以後にいくら辿っても彼と会話の機会を持ったという記憶がありません。
■ あれからおよそ30年
30年後ほどして、都会から帰ってきて、彼は村に居を構えるようになりました。わたしは、京都の市内で長い間生活を続けていましたので、盆の墓参りの他数回しか年に帰ることはありませんでした。
そんな時、一度だけ、偶然に盆の時期に彼が、同じ川で釣りをしているのを、遠くから見かけたことがあります。
しかし、彼には家族がそばにいて、楽し気であったので声を掛けないままでした。彼をその後見かけることは一度もありません。
また、彼の家にも今は人の気配はまるでありません。家の前を車で通る時も、散歩の折の通りすがりにも、「やっさん」がひょこりと現れて
『釣りでもしようか?』
と、あの夏の日のような笑顔を、見せてくれるのではないかという気がするのです。しかし、彼の家は、すでに久しく沈黙したままです。
あるいは、あの盆の時の彼の姿が見納めだったのでしょうか。