子供の頃の秋、おやつは家の前にある数本の柿であることが多くありました。その日、あるいは前の日に、親が捥(も)いで来て置いている柿を食べることもありました。
しかし、新鮮なものを食べたいのなら、目の前にたわわに色づいている柿を捥(も)ぐのに越したことはありません。そこで、物干し竿のような太さの竹の片方を山形に切り落とし、棒の先に割れ目を入れ、これでもってして木の上の方にある、きれいに色づいたものを採るのが常でした。
陽当たりの良い木の上の方に、おいしい柿は実っていますから。
しかし、子供が竹の棒を操るのは、その重さと長さの加減から、存外に困難です。目的の柿に狙いを定めますが、良いところまで行きますが、ふら~と揺れて柿の付いている細い枝に棒の割れ目がなかなか入りません。
苦戦の末、採れても途中で落ちてしまい、草むらに行方不明となってしまったり、落ちたはずみで割れてしまったりして、食べるに至るまでの時間が長いこと。
■ 柿の木に登る
従って、自らが柿の木に登って、直接に採ればいい結論になります。子供は身軽ですし、体重も軽いので、登る位置に足を掛けるところがあれば、容易です。
そして、木に登れば普段には見られないような、鳥瞰的な周囲の景色を見ることも出来て、一時(いっとき)の天下を取ったような気分を味わえるものです。さらに、食べながら、次はあれにしようなどと、見定めも簡単にできます。
■ 柿の木には神様がいない
『柿を採って来る』
といって家を出る時には、親によくこう注意されました。
『柿の木(の枝)は神様がいないから、気を付けろ』
これは、柿の木が折れやすいから、気をつけろという諭(さとし)です。実際に、柿の木の枝は相当に太いものでも、実に折れやすいのです。他の木であれば、相当に撓(たわ)んでも、人が枝に乗るのをやめたり、曲げていた手を離すと、容易に復元します。
しかし、柿の木はその撓(たわ)みの限界が、極端に少ないのです。即ち、曲げると少しか曲がらず、突然にポックリと折れてしまうのです。体重のすべてのそれに掛けていれば、折れた時には、体は迷わず地上へと落下。そうなれば唯ではすみません。
■ 柿の木に登った時は
柿の木に登った時には、そして枝に足を掛ける時は、出来るだけ付け根にし、腕は必ず用心のために、また足のへの加重を減らすように、他の枝を握るようにします。こうして残った自由の利く手で柿を捕るようにします。
わたしのお気に入りの柿の木は、畑の土手に有ってよく登ったものです。登り易かったからで、木の下の方に足を掛けるにちょうどよい「木の瘤(こぶ)」があったからです。
■ 落ちかけた
わたしも落ちかけたことがありました。登った時にはいつも、安全を思い比較的太い木の枝の元に跨いでいるようにしていました。しかし、その一見安全だと思えた枝が、ある日ポックリと折れたのです。その時が偶然にも、腰掛の状態から離れようとしていた時でもあって、他の枝を握っていたことから難を逃れることが出来ました。
■ 家の柿を食べないの?
昨今、柿の木にたわわに実っている家を見かけます。しかし、晩秋に至っても、なお、それは食べられることもないままであるのを見ますと、
『食べないの?貰えたら食べるのに。もったいないな』
という思いがします。
晩秋に柿が実っているさまは、日本の一幅の風景画の様に美しくはあります。しかし、柿はその多くが食べられて、幾つかを野鳥のために残したままで冬を迎えるといった寒々とした光景の方が、わたし個人的にはしっくり来る気がします。