「電車の通路の向かい側の席に3人が座っている。夫婦の間は子がいる。夫婦の顔を見比べてもいささかも似ていない。しかし、子供と母親を見比べるとどこか似ている。父親ともとやっぱり、何か似ている。夫婦の子供とはそういうものだ」
何かで読んだ記憶のある一節なのですが、失念してしまいました。したがって、作者は誰か、本の題名は何んであったかについては、まったく不明で、この記述も大よその内容であって、そのものではありません。あるいは、記憶違いが殆どであるかも知れない。
しかし、わが意を得たりと思えた部分を押し花のように、わたしの記憶の中大雑把ながらも残されていたのを、たった今引っ張り出してきて書きました。
■ わが子
翻ってわが子をみればわたし似。その多くがわたしのパーツを模造して出来上がっています。ですから、
『お父さん似ですね』
といわれる。わたしとしてはうれしいが、妻はうれしくはないだろう。
子はそれをどのように思っているのかは、全くわからない。なるほど、眉、口や鼻、さらには顔の輪郭だって似ている。それで、わたしに似ているということになるのかも知れません。だからといって、妻にあまり似ていないということでもない。
耳の形や毛の質、肌の色、背丈、腕の長さなどの特徴は、わたしの持っているものではなく妻のもの。つまり、人目の判断となるような部分だけが、わたしに似ているに過ぎないのだろうと思います。
■ 夫婦に似ている
夫婦にはしたがって、どんな子供であろうとも、仔細に見比べれば同じくらいの比率でに似ているのではなかろうか。
■ 姉と妹
近所の親しい家庭には、二人の姉妹がいます。二人を見比べても、見た目は明らかに似ていない。姉は父親、妹は両親の良いところやそうでもないところを取りそろえた顔で、どちら似でもないか、どちらにも少しだけ似ているともいえる造り。
付き合いっていると、父親は自分に似ている姉を可愛がる。妹はそういう父の態度を敏感に察知して、敬遠気味に生きているという風にみえます。
呼び方も姉は
『つかさ』
妹は
『あいちゃん』という風。より可愛いと思っているらしい姉は、呼び捨てであり、今少しの妹は引け目を感じてなのか、ちゃん付け。
親は子の誰であっても片贔屓(かたひいき)なく可愛いというけれど、本当は、自分により似ている子の方をより愛しているのかも知れませんね。
そんな風に思うのですが。わたしには、子が一人しかおらず、複数の子の親の気持ちは知れません。