「源八坂」と書くと、あるいは有名な歴史上のある坂の名称なのか、と思われるかも知れない。実はそうではありません。この坂は、名も知れない寒村のわたしの少年の頃の思い出に地にあります。
■ その位置は
長く張り出している尾根がそこだけくびれるように低くなっていて、そこを越えると、同じ村の名でありながら谷が違えば、こうも知らない家が多いのか思えるほどの別の暮らしの世界がありました。
その谷にわたしの同級生も幾人もいましたが、学校以外では、殆ど行き来がなかったのも、この山長く続く尾根の阻(はば)みがあったからでした。
このくびれた尾根に続く坂道を、村人は「源八坂(げんぱちざか)」と呼んでいたのです。ここを超えていけば、違う谷への距離としては半減以下となる。したがって、利用する人は少なくはなかったけれども、決して緩くない坂でした。
若い人でも息を切らして上らねばならず、老人でなくとも余程の用がなければ使いたくない道でもありました。
■ 源八坂の両側
坂の片側は、坂の上に行くに従い小さくなる幾つもの段々畑があり、農作物が多種多様に耕作されていました。作業には、多くの老人も来てはいたのです。そこに至るまでの坂の苦労は多かったことでしょう。
反対側は直ぐに山肌で、源八坂はこの山の裾を切り取ってつられたもので、ようやくのことで荷車がすれ違える程度の広さであったと記憶しています。
■ 冬場の雪滑り場
ここが、村の子供たちの雪滑り場となっていました。坂の向こうの中学生までの多くが、凍てつく寒さの中で、それぞれが自慢の橇(そり)を自作して滑る速さや長さを競ったものでした。
凍てつけば速さも出せるとあって、前日に雪をかき集めたり、水を打ったりするものも現れて、その上を橇で滑る速さは子供ながらに恐怖を感ずるほど。
『ホンマ、京極の兄貴はええ橇(そり)つくるわな』
『そうやな、どこがわしらと違うんかいな』
兄の橇は、有名でしたね。
■ 橇(そり)競争
わたしは、寒いのが苦手なので時々それらを見に行く程度でした。兄が工作が器用で、自作の橇(そり)で、一番の滑りの距離保持者となってからは、わたしも俄然として、目覚めて橇づくりを始めました。しかし、こういうモノづくりには、向き不向きがあり、わたしは後者でした。
橇は、数センチの板二枚の片端に角度をつけて切り落とし、その下に青竹を張り付ける。この時、青竹を角度を取った部分に沿わすように曲げるのが一番の難所。七輪の火に青竹をかざし、頃を見計らって「えい!」と曲げます。
その板を子供の尻が乗る程度の間隔を取り板を張れば一応完成です。滑り終えた後、坂上に戻るための縄も付けました。
■ 中止に追い込まれる
雪を踏み固めたり、速さを付ける為に寒い日の夕方に水を打ったりして、橇競争が昂じたことが、大人たちの激昂を買う結果となり、源八坂が使用禁止に至ったのは、今から思えば当然だったとも言えるでしょう。しかし、、他に娯楽がない村におもちゃを取り上げられたように意気消沈した記憶が鮮明です。
■ あれから何十年後
何十年後のつい先ごろ、帰郷時に一人「源八坂」へ行ってみようと思い立ちました。村道から20メートルも入ると、胸ほどもある雑草とその上に覆いかぶさるような雑木が行く手を阻み、畑はわずかに段差が感じられる程度まで荒れ放題。
もはや、当時の面影はすでになく、茫然とただ見守るのみでした。まるで、昔の溌溂とした同級生が老人になったのを見るような気がしていました。