聖護院 京極のブログ

天と地の間に新しいことなし(ことわざ)・・・人間の行動は今も昔も変わってはいない

米国とイランなぜ仲が悪いのか

 

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画像出典:NHK

 

米国とイラン

この二国がどうして、仲がこんなに悪いのか?コロナ禍の今、表立った対立の動きは双方とも内政に懸命であるためありません。

 

何故仲が悪いのかは、誰もが思うことです。しかし、だからといっていくら両国の仲が悪くても、日本に大きな安全保障上の脅威に直接さらされませんから、「仲が悪いのはなんでかな?」程度でそれ以上は本当のところは追求する気になれません。

 

イランは二次世界大戦以降に政変が多くあり、政権が一転二転した歴史があります。そこで、現在に至るまでの同国の略歴を見てみましょう。この略歴ですら、読むのに疲れると読者は思われるでしょう。ここはざっと読んで、

 

『へえー。イランも大変な歴史を歩んで来たんだなあ』

 

と捉えて頂ければいいと思います。

 

 

■ 二次世界大戦後

かつてのイランは、王様がいて王様が政治をする国でした。現在、王政のサウジアラビアのような国だったのですね。第二次世界大戦時に当時の王様のレザー・ハンはドイツ側についたのですが、ドイツは敗戦してしまいます。終戦後、イギリスやロシアの圧力で退位させられていまいました。

 

 

■ 王様の後継ぎ

イギリスやロシアの圧力で退位させられた王様の子レザー・ハント2世が後を継ぎます。

 

 

■ レザー・ハント2世(パーレビ国王)の失脚

レザー・ハント2世はパーレビ国王の方が世界では通りの良い名前。イランを西洋化しようとする「白色革命」なるものを推進しようとしました。上からの押し付けに国民は反発します。

 

この王政が親英米であったことから、外国勢の関与する国政から独立した国家目指そうとする民族主義運動が起こりました。当時のイランは、国の資源である石油がイギリスの利権に落ちていましたので、まずはこれを取り戻そうという運動の主な目的でした。

 

そして、のちに運動(イラン革命)でレザー・ハント2世(ハーレビ国王)は、失脚することとなります。

 

 

■ 民族主義者モサデグが首相に就任

 1951年、民族主義者モサデグが首相に就任。石油の国有化を宣言。イギリス系のアングロ=イラニアン石油会社を接収しました。

 

 

■ 欧米の反発

1953年、この接収に、英米が黙って居よう筈もなく、クーデターが画策され、モサデグ首相が失脚。再び、レザー・ハント2世(パーレビ国王)が返り咲きとなります。当時は東西の冷戦時でもあり、アメリカはイランをソ連からの反共の砦にしようとの目論見もあったようです。

 

 

■ レザー・ハント2世(パーレビ国王)の返り咲き後

返り咲いた国王は親英米路線を進め、モサデグ首相が進めた国有化がとん挫しました。また、失脚前に進めていたイランの欧米化の「白色革命」も推進しました。この強引な国の西欧化に宗教界を中心とする反発が強まります。が、これを弾圧しました。

 

 

■ イラン革命

1979年1月、パーレビ国王は国外に亡命、王政は崩壊します。同年2月、フランス・パリに亡命していた宗教指導者ホメイニ師がイランに凱旋帰国します。

 

反体制勢力は王党派を駆逐。新たにイスラム原理主義、反米路線を掲げる新政権が樹立され、「イラン=イスラム共和国」が成立しました。

 

 

■ 米大使館人質事件とイラン・イラク戦争

ホメイニ師を最高指導者とするイラン新政権は、中央条約機構から離脱するなど反米政策を進めます。

さらに、アメリカが、イランからレザー・ハント2世(パーレビ国王)の亡命を受け入れたことで、ホメイニ支持の学生たちがテヘランアメリカ大使館を襲撃。1年以上も大使館員とその家族52人を人質にとる事件が発生しました(アメリカ大使館人質事件)。

 

当時、アメリカのカーター大統領(民主党)は救出作戦をするも失敗。この事件は、カーター政権が1期4年で終わり、共和党レーガンが大統領になるきっかけになったと言われています。

 

 

■ イラン・イラク戦争

 イラン・イラク戦争は、中東における宗教対立でもありました。そこにアメリカがこれまでのイランでの屈辱を晴らすために、イラクを支援しました。

まず、ラン革命後、イスラム教の宗派でスンニ派が優位の近隣国は、シーア派系住民による革命が広がることを懸念します。

隣国イラクサダム・フセイン政権はアメリカの支援の下、革命の混乱に乗じてイランに侵攻。このイラン・イラク戦争は8年におよぶ泥沼の戦いになりました。

 

 

■ イランの核疑惑

革命後の1980年以来、イランとアメリカは対立し断交中です。それが一層深まる事態が2002年に起きました。イランが核兵器を開発しているのではという疑惑です。

 

イラン側は平和利用を主張しましたが、アメリカや西欧各国などは経済制裁を実施しました。

 

 

■ イランとの核合意

2015年、アメリカ・イギリス・ドイツ・フランス・中国・ロシアの6カ国は、イランと核開発に関する協定で合意が成立

イランに求められたのは、

核兵器に用いるような高濃縮ウランや兵器級プルトニウムを15年間生産しないことと、ウラン濃縮に使われる遠心分離機を大幅に減らすこと」

でした。

 

合意を受け欧米各国は、イランへの経済制裁を緩和することになりました。

 

オバマ政権が締結したイランとの核合意でしたが、当時アメリカ国内では共和党を中心に「甘すぎる」と批判が出ていました。

 

 

■ アメリカの合意離脱

その後就任したトランプ大統領は2018年5月、イランとの核合意からの離脱を一方的に宣言。制裁を再開します。アメリカとイランの緊張は、再び高潮していきました。

 

アメリカの核合意離脱を受けて、イランは2019年5月から核合意の履行を段階的に停止しています(なお、イラン政府は1月5日、核合意に基づくウラン濃縮などの制限をすべて放棄すると表明)。つまり、イランも事実上核合意を放棄したわけです。

 

さらに、アメリカが原子力空母をイラン周辺に派遣するなど軍事的圧力をかけたり、イランが米軍の無人機を撃墜したりと、次第に両国の緊張が高まっていきます。

 

 

■ アメリカ、それ今指令官を殺害

2019年12月末、イラク北部キルクークにあるイラク軍基地にロケット弾が撃たれ、民間業者のアメリカ人1人が死亡。米軍とイラク軍の複数の軍人が負傷しました。

 

2020年1月3日、アメリカ軍がイランのソレイマニ司令官ら殺害。アメリカはソレイマニ司令官の影響下にあったシーア派民兵組織が、アメリカ人や米軍施設への攻撃を計画していたことを殺害理由としています。

 

 

■ バイデン大統領候補の方針

もし、現在大統領選でバイデン大統領となった場合は、一度トランプ政権で離脱した「核合意」に復帰するとしています。これに、イランはどう応えるでしょうか。

 

 

■ 和平へのイランの若者の想い

イラン国内は、若者を中心に和平に対する思いが強まっていると伝えられています。同国は、石油が産出することから、長いアメリカや西欧の経済制裁下にも耐えることが出来ています。しかし、日常生活での不便さに国民の不満は溜まりつつあり、下手をすると政権批判に発展することもあり得ます。

 

いつまでも続く対米強硬派の現指導者達に対する若者の支持離れも進んでいます。それが、現政権の一層の対米強硬を推し進める結果を招いています。つまり、反米強化により、国内の融和政策への期待のけん制です。

 

 

■ 新コロナの後

もしかしたら、新コロナとイランの若者がイランの強硬路線を変えることになるかも知れません。期待できると思います。また、今年の年初から度重なる同国の大雨による洪水被害に対する政府への対応不満も昂じてきています。

 

コロナ禍と自然災害が融和に対する勢力に対して加勢になるかも知れませんね。