中学生の頃、生家は草葺きの典型的な日本家屋でありました。その古さは極めつけで、京都府の文化財局が「有形文化財に当たる」として、調査に来たほどでした。軒先が1.5メートルに満たない低いもので、燕ですら危険を感じて巣を作ってくれない程でありました。
それが、他の家では燕が良く飛び交って巣を作っているのを見る度に、まことに残念で遣る瀬無い気持ちになったものです。その年頃では、文化財級の家の造りなどどうでも良く、燕に好かれない我が家が恨めしくありました。
■ 有形文化財に登録されず
結局、わたしの家は有形文化財に登録されることはありませんでした。
『登録されるかも知れへん!』
調査に来た人が帰ると、父の喜びようは大変なものでした。今日ではどうであるのか知れませんが、当時はこれに登録されると、改造などは自由に行えないものの、屋根の吹き替えや、外壁の塗替えなどは言うに及ばず、部分的な補修などに多くの補助金が出るとあったからです。
しかし、府の調査で、家の中の改造が多すぎて、指定には至りませんでした。父の落胆は気の毒なほどでしたが、確かに寒さ対策などに、仕切りやサッシを増設したり部分的に、造り変えたりしてかなりの手が入っていたので、無理からぬ話ではありました。
■ それを機に建て替え
有形文化財が登録見送りとなり、兄の援助の元で、建て替えることとなりました。古い建物であったことから、
『なんぞ、お宝が見つかるかもしれん』
わたし達は、主に金銭になるものに目を光らせて家の解体作業を見ておりましたが、それらしいものも見つかりませんでした。あるいは、古文書のような、現在では価値があるものもあったかも知れませんが。そんなものには、目もくれなかった、、、
■ 地中から壺
建物にお宝がないが、地中にはあるかも知れない。基礎工事の掘削時に発見出来るかも知れない。淡い期待を抱いていました。
すると、子どもが入れるくらいの壺が出てきました。一同が色めき立ち、覗き込んだものの、中は空っぽ。
結局何も発見出来ないままでありました。その後の、建て替えの家も近年消失し、今は草の生い茂る広い敷地が残るばかりです。そこに佇むと、次から次へと走馬灯のように子供の頃が思い浮かんできます。
残されたものは、荒れた田畑、吹く風、そよぐ木々のみであります。