ロッキー山脈の白頭鷲の飛翔
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何かの本であったであろうとは思うのですが、全く思い出せません。
その中の記述もまたあやふやな記憶ではありますが、ざっとこんな風な内容でした。読者の中に実際のところをご存じなら、お許し願いたい。
■ 別れ時には
「保護した傷ついていた動物が元気になって、野に返してやる時が来た。それで、然る場所で離してやると、一度も振り返ることなく走り去って行った。見事な別れであった。わたしも親しい者とは、あのようなきっぱりとした別れがしたい」
というような意味の文であったと思います。わたしは、それを読んだのが20歳台の半ばころで、結婚もせず勤めも定まらずにいる呑気な青年でありましたが、この言葉は痛く心に響いた気がします。
何故なら、好き合った彼女と別れた後で、想いを引きずっていたからであります。
■ きっぱりと
出会いがあれば別れもあるのがこの世の定めではあります。わたしの娘は幼稚園の卒業から今日まで、別れの場面では涙腺が崩壊して、大泣きをするというようなことが幾度もありました。
いつかは、泣いて別れるのだから、そんなに親しくしなければいいのに、と勝手なことを思ったりします。しかし、涙のあとの彼女は実にきっぱりとして、サバサバとしています。どちらかというとわたしの方が引きずるタイプです。
わたしが、冒頭の引用文を知っているのに、彼女は知らずに実践できるのが何だか羨ましくあります。
「去る者は日々に疎(うと)し」という言葉もあります。きっぱりと諦めたら、新しい出会いも直ぐにあるというものでしょう。
「去る者は日々に疎(うと)し」とは
死んだ者が月日とともに忘れられていくことや、親しかった者が遠く離れることにより縁が薄くなっていくことは、やむを得ないことだという人生の無常をいう。
■ 動画でも
アメリカのロッキー山脈の麓で瀕死の白頭ワシを保護して、自然に返してやるまでの動画を最近見ました。その時も、広大なロッキーの高台から保護した老人の手から飛び立って、白頭ワシは深い谷に羽をはばたかせて去って行く。老人の目は、その行方を懐かし気に追う。
しかし、白頭ワシは一度も旋回することなく、やがて消えていきました。それが別れでした。
■ 祖父
祖父が死の間際で残した言葉は
『さらばじゃ』
だけだったそうです。おそらくはそこに万感が詰まっていたことでしょう。彼の死はわたしが生まれて数年後のことでした。後年、その話を聞いても若かったせいか
『へえ』
だけでした。
■ わたしなら
わたしなら、なんて言おうかな?辞世の句でも用意しておいても良かろう、とは思います。それを実際に死の間際で読むとなるとこんな風になるかも。
『おじいちゃんが、なんか言ってる』
『もぐ もぐ もぐ』
『え、なんて言った?何か飲みたいのかね』
『もぐもぐ もぐもぐ・・・』
暫くして
『先生呼んで!』
先生が来て
『ご臨終です』
もぐもぐは『ほな、さいなら。仲良く暮らせ』
であります。