どんな立場の人でも、共通して言えることは、
「下半身に人格はない」
です。下半身に人格はない?何言ってんだ?
と思われるのが普通でありますが、薄々はもしかしたらあの事を言っているのかな、程度には感づいていられるであろう。
■ 要約すれば
要約していえば、男女とも(男が多いともいえない)、良い女(男)を見ると、放って置けないという事であります。その根底には、肉欲があるわけですが、ある脳科学者の意見では「極めて正常な反応」だそうです。一安心ですかね。
■ 問題になるのは
問題とされるのは「妻や夫が有りながら」ではありますが、有名芸能人とか社会的に地位ある政治家にとっては、社会的信用や地位が大きく棄損して、多くの利益を逸してしまいます。社会の規範や模範でなければならない?にも拘わらず、それを犯したという訳で、四方八方からつつかれる。
■ 傍観する側
そういう記事や映像を見る側は、
『アホなやっちゃなあ』
と、人ごとの様に口にします。勿論、他人事ではありますが、その言葉には、
『もっとうまくやれかったんかいな?』
とか
『図に乗るからだ』
くらいの、下手をして発覚に至った批判と嫉(そね)みの想いは多少なりともあると思います。
勿論、同情心は起こりません。なぜなら、発覚まではいい思いをしてきたに違いないと、推測してしまうからであります。また、発覚しなければ、ずっと続いているだろうから。
■ 顧みれば
顧みれば、あるいは
『おれも気を付けないといかん』
であります。これは、現在進行形であれば、発覚しないようにする、という思いであったり、そのような関係が現在はないが、なるとするとどんな方法が良いのかな、程度で教訓を得ようとは考えていない。
現在そのような不適切な関係がなくて、批判が出来る人も、かく言う自身でも良い女や男がいたら、
『付き合えたら、いいなあ。チャンスはないだろうか』
などと内心では思うもの、あるいは思っている人がいるものであります。
■ テレビや映画
テレビのドラマのストーリーには、それを叶えてくれそうな、あるいは、教訓となりそうであるから、見てしまうものであろうかと思われます。
しかし、それらを見てもやっぱり自分自身が当事者となってみたいという気持ちを静めることは不可能というものです。却って浮気心を煽ってしまう結果とも成りかねません。
■ 人を好きになる
人を好きになるのに相手や自分に家庭があるという立場があっても、制止することはなかなかできないことです。それが出来るなら、引きも切らないゴシップが出よう筈がないからであります。聖書にすら「汝、姦淫することなかれ」とあるくらいです。
まあ、男女の仲はこれまでからも、これから先も相も変わらず波乱含みで、延々と続くことでしょう。それも、「極めて正常な反応」から来ているなら、無くはならない話のタネになり、下半身に人格があることはないでありましょう。