聖護院 京極のブログ

天と地の間に新しいことなし(ことわざ)・・・人間の行動は今も昔も変わってはいない

ふりかけ

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画像出典:丸美屋

 

わたしは、今でも家族と買い物に出ると、「ふりかけ」がある棚の前で、時々、ある感慨に浸る。弁当のご飯の上に掛けられたり、小分けになってそれに添えられているあの「ふりかけ」です。

 

それは、わたしが望んで得ることが叶わなかった、遠い記憶に続いているからであります。

 

■ 弁当の時間

わたしの中学時代には、給食はなく弁当持参でなければなりませんでした。しかし、弁当のおかずは、その三年間で殆ど変わることはありませんでした。決まって、黒々とした昆布の佃煮、ちくわ、卵焼きの3点でした。

 

あまりの代わり映えのなさと、みすぼらしさに、弁当の時間には左手で弁当をしっかりと囲うようにして、殆どのみこむようにして、素早く食べ終えるのが常でした。

 

 

■ 前の席の弁当

それに引き換えて、前の席の級友の弁当は、 わたしの比較にもならない程に豊かでありました。おかずは、彩が美しく映えるように工夫され、白米の上には、「ふりかけ」がありました。

彼は、おもむろに弁当の蓋を取ると、蓋についた「ふりかけ」を、丹念に箸でこそぎ取り、口に運ぶ。それが終えるとようやく、弁当を食べ始めるという塩梅でありました。

 

 

■ ふりかけ

そのふりかけは、ご飯の上で、丁度色づいた山のように鮮やかで美しくわたしには思えたのです。

 

『どんな味がするのだろうか。一度たべてみたいものだ』

わたしは、その欲求を、しかしそれを母に告げることは出来ませんでした。わたしの家は、麦飯を主体とする程の困窮をしており、その麦ですら切らすことも少なくなかったからです。

母は口癖のように、

「カネがない」

と言っておりましたから。

 

■ 盗もうとした

村に3軒の店があり、どれも個人経営の小規模なものでした。家から最も近い橋の袂にある店が、わたしの家の行きつけでありました。そこに、その級友の弁当にかかっていた同じ「ふりかけ」は売られていたのです。

 

ある時、何かの買い物に行って、高額の紙幣を差し出すと、店主の妻は釣り銭の用意のために家の奥に消えました。

その時、『今なら「ふりかけ」を盗むことが出来る』。それは、わたしに天が与えたチャンスのように思えました。わたしの心は、善悪の判断をこえて、ただそれが欲しいと思った。

 

■ 「ふりかけ」を取り損ねる

わたしは、「ふりかけ」を実際に手に持ち服の内ポケットに素早くしまおうとしました。しかし、極度の緊張で手が震え、床に落としてしまった。間もなく、店の奥から物音がして、店主の妻が戻ってきました。わたしは、拾い上げる動きに移れぬままに、その場に立ち尽くしていました。

 

わたしの胸は早鐘を打ち、動悸が彼女に聞こえるのではないかと思ったほどでありました。

以来わたしは、結局あれほど望んだ「ふりかけ」を相当の長らくの間、食べること叶いませんでした。

 

■ 我に返ると

今、「ふりかけ」の売られているスーパーの棚の前で我に返ると、そこには種々のおいしそうなふりかけが並んでいます。今なら、それらを買うことは造作ないことです。

それをしかし、今は少しも欲しい、買いたいとは思わない。

 

欲しかったのは、あの時であったのですから。