聖護院 京極のブログ

天と地の間に新しいことなし(ことわざ)・・・人間の行動は今も昔も変わってはいない

どんなに愛していても、一緒になれない時代っていいね

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画像出典:YouTube

 

好き合っているのに思うに任せられず逢うことが出来ない、あるいは結婚出来ない。そんなことが、昭和の時代にはありました。家柄が違う、育ちが違う、親の定めがあるという制約があったのです。

あるいは、これは今でもそうですが、妻や夫のある、人目を忍ぶような恋も、どんなに望んでも叶わないことが、厳として存在しましたし、今も昔ほど深刻ではありませんがあります。

 

愛しているのに合うことが定めとして会えない、一緒に慣れない。なんていい時代だったのでしょう。わたしは、そのような時代の一端に生きた人間として、何とも羨ましい。

 

■ 制約があってこそ恋は燃え上がる

『え、そんな不自由な時代なのに?』

とあるいは反問されるかも知れません。しかし、だからこそ恋というものが燃え上がり、失恋があり、哀しい別れがありました。一人の人生に残る悲しく辛い心の疼きが残されたのです。

 

今の時代に悲恋があるでしょうか。愛しながらも別れなければならない社会の壁があるでしょうか。わたしにはあるとは思えないのです。

 

それゆえ、

「一緒に慣れないのなら、いっそ死のう」

などと言うことはあり得ないでしょう。今の若い人を見ていると、馴れ初めなどは、昔と変わることが無いと思うのですが、逢おうと思えば互いが良いのなら会えますし、それを縛るなにものもいませんし、ありません。

 

■ 映画の名作でも

映画の名作でも、男女の恋愛ものは一緒になることが出来ずに終わる悲恋のストーリーが多いですね。人は、社会から制約や迫害を受けることの方が、生きがいを感じるのかも知れないと思える程です。

 

■ 駆け落ちをした人

わたしの知っている人は、家柄が違うということで、家から勘当されながらも好きな人と駆け落ちをした若い女性がいました。わたしと3つくらい年上でしたが。今は、どうしているでしょうか。

 

■ 遂がわば 何の 恋の味

「遂がわば 何の 恋の味」とは、好きでならない人といざ一緒になってしまったら、急に恋心が醒めてしまう、というような意味です。好きなのに一緒に慣れず諦めて生きる、今でもやっぱり好きだ。そのような人生の方が、深みとコクがあると思うのです。

今の時代は、そんな悲恋が味わえないなんて、なんてつまらなく、気の毒でさえおもえます。