この話を聞くと、読者はそれは奇習だと思われるかも知れない。あるいは、逆に同意してくれるとも期待する。その話とは、トイレの戸を完全に閉め切らずに用を足すということでなのです。
■ 戸を完全に閉めない
トイレの戸を完全に閉めないで用を足す。何もトイレの戸が壊れていて、完全に閉まらないというのではありません。完全に締め切らなくても何ら不都合がないからであります。
それは、わたしが古い家を買って一人暮らしをしていた時のことが発端となっています。
ひとり住まいのトイレに行っても、客が無ければ誰に見られることも、気遣いをする訳でもない心軽さもあるから、戸を閉め切る必要は必ずしもありません。戸を閉め切らなくても野に出でて全開放の元でするのと大差がないし、トイレという狭い空間での閉塞感からも解放されるというものです。
だからといって、完全に開き切って用を足すのも何か落ち着かない。トイレという狭い空間は厭ではあるが、誰も見ていないからと言って大ぴらに開けると、そこから連なる静まり返った空間に怯えてしまう。それで、薄っぺらい冊子程度に開けて置くということになる。
■ 閉じ込められる恐怖心
一人暮らしは、トイレで用を足している間に開かなくなるという懸念があります。トイレの戸の前に何かを積んでいたものが、何かの拍子に崩れ落ちて戸が開かなくなる、とか、地震が運悪く来て戸の立て付けが歪んで開かなくなるという懸念です。
そうなると、誰も発見してくれず途方に暮れる位ならまだしも、悪くすると餓死しまうかも知れないと思えてくても不思議はありませんでしたから。
それで、戸を完全に閉め切らないという習慣がわたしに根付いた。
■ 結婚後も
その奇習?は結婚後も残り。何を考えて得心したのか、今では妻も子も同じように戸を閉め切らないで用を足している。それは悪習と思えて来るのですが、妻はいずれは一人暮らしもすることになることも有り得るのだからと、注意をしません。
しかし、前途ある娘は結婚し相手を驚かすことにはなるまいか、と恐れる。その時に、明確な理由が彼女は示すことが出来るだろうかと案ずる。