聖護院 京極のブログ

天と地の間に新しいことなし(ことわざ)・・・人間の行動は今も昔も変わってはいない

最速、一日で退職 (前)

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画像出典:東洋経済

 

 

わたしの職歴は惨憺たるもので、一番短かったのは一日だけの勤務でした。一日だけでは最早、勤務とも言えないものでこれより短い記録の人は殆ど居ないであろう。

 

■ 職を転々

若い頃の(今もそうかも)わたしは、チャランポランで何をしても長く続けることが出来ませんでした。殆ど精神病のようなところがありました。

どんな職業についても、

『いや、この仕事は自分のやりたいものではない』

と思えてきて、

『どこかに、自分にピッタリと合う仕事があるはずで、見つけられていないだけだ』

という気持ちが割り込んできて、まじめに勤めてみようとする心を打ち砕いてしまうのでした。

 

今に思い返せば、そうやってどっぷりと仕事に浸かり、精を出すことから逃げていたのかも知れません。しかし、自分にあった仕事を見つけたいという思いもその時にはあったことも確かです。

 

わたしの同級生らは、そういうわたしを半ば呆れ、半ば羨んだりしました。それはわたしにおいても同様で、収入は殆どがアルバイトで、家賃や食費、光熱費の支払いで、目一杯でありました。下手をすると、数日間一食しか採ることができない程の時も少なくありませんでした。まあ、それが、好き勝手に生きている人間の代償でもあります。

 

無論、親からの仕送りもなければ、誰かに寄宿させてもらうこともありませんでしたし、それをわたしは望まなかった。すべては自己責任という気持ちはだけは、持っていたのです。

 

どれ程の転職をしたのかと問われればおそらく、わたしの体についている指の全部を折り数えても足りない位であろうかと思う。が、数えたこともなく今になっては知りようもありません。面接に行った会社名を殆ど失念してしまいました。

 

■ 面接

当時の転職には、新聞の求人を利用するのが主流で、大々的なものから、不動産の中古の仲介物件のような小さな欄にまとめられたものも少なくなかった。わたしは、建築関係のデザイナーとして働きたいと思っていたのですが、殆ど募集はなかった。

 

そんな時、

「建築設計技術者募集」とまことに親指幅の小さな募集記事が新聞に出たのです。わたしは、建築の設計なら、建築デザイナーと大きな隔たりはないし、ここでそれを経験して置けば、将来に役に立つかも知れないと考えました。

 

そして、面接に行き、翌日から勤めに行くこととなりました。

 

■ 不動産会社

「建築設計技術者」という新聞広告はわたしにどこか夢を与える言葉でした。かっこよく思えたのです。もしかすると、わたしの天職になるのかも知れないとも考えたりもしました。

 

初日、会社の入居している大きなビルの前に立ってみると、これから務める小さな不動産会社はテナントの一社で、入口の扉には「○〇建設 一級建築士事務所」と書かれており、その下に「○〇建築設計事務所」とも書かれています。不動産会社でも○〇建設とする名の会社は今でも全国に多数あります。

 

設計事務所が併設されているのか、とわたしは思いました。

『それも良かろう』

 

■ 社員に紹介される

会社に入ると、全員で十名にも満たない陣容の不動産事務所で、設計図を書いている人の姿もまるで見えません。室内を見回すわたしに、声を掛けたのは面接時に応対した社長で、

『みんな、紹介する。今日から内に来てもらう○〇君だ。よろしくな』

といいました。

 

わたしは、よろしくと返して頭を下げました。そこにいた人たちも頭を下げるが見えました。この時、わたしの脳裏に不安が過(よぎ)りました。

『設計している人が見えないが、、、』

 

 

明日に続きます。