芥川龍之介の「侏儒の言葉(しゅじゅのことば)」といういわばエッセイのような集があります。それらの中で、わたしの特に印象に残っているのは「瑣事(さじ)」の部分です。瑣事は些事(さじ)でもよく、意味合いは同じです。即ち「些細なこと。取るに足りない事柄」という意味あいです。「瑣事」の原文は下部の色付き細字の部分です。
瑣事
人生を幸福にする為には、日常の
人生を幸福にする為には?――しかし瑣事を愛するものは瑣事の為に苦しまなければならぬ。庭前の古池に飛びこんだ蛙は百年の愁を破ったであろう。が、古池を飛び出した蛙は百年の愁を与えたかも知れない。いや、芭蕉の一生は享楽の一生であると共に、誰の目にも受苦の一生である。我我も微妙に楽しむ為には、やはり又微妙に苦しまなければならぬ。
人生を幸福にする為には、日常の
人生を送る日々において、小さな他人には取るに足りないような個人的な喜びを得ることが幸せを感じる瞬間でしょう。今日は、茶柱が立ったと言って、何か良いことがあるかも知れないと喜ぶこともあれば、片思いの人の顔を見ることが出来たと胸がときめくかも知れない。
それらは、ささやかではありますが、生きていく上での楽しみでもあります。
■ しかし
しかし、同時にその楽しみが反転するような時には、それは喜びであると同様にささやかではありますが、落胆に変わる時でもあります。喜びと苦しみは大小はあれど、その本質は同じであり両者は「禍福はあざなえる縄の如し」と言って絡み合っていると言っていいでしょう。
人が幸せに生きるためには、
これらの瑣事を受け入れて良しとしなければならないが、同時にその瑣事にも苦しまなければならない。
幸せとは、そのように細やかな喜怒哀楽の裡に日々を送ることであります。しかし、同時に、人はまた、どこかにその幸せな日々に飽き足らなさを持っているものです。幸せはそこに浸かっている時には、殆ど何も感じないけれども、失ってしまうとその大切さと心地良さが解るということでしょうか。良きにつけ悪しきにつけ。
平凡の裡に生きることこそが幸せでありますが、その平凡さに耐えきれないという、人間の脳裏をフッと横切る時、否定する時に幸せは霧散してしまうかも知れません。もっと違う生き方がある筈だと思うこと、そして変わることもまた、人生ではありますが。
恐らく両方は成り立たない。