どうでもいいことではありますが、よく語られる命題に、
「釣りをしている人より、それを見ている人の方が、気が長いか」
というものがあります。
実際のところは釣り好きのわたしにもそれについて、深く考えたことはない。しかし、見ている人は自分が釣りをしている訳ではないので、釣れようが釣れまいが本来どうだっていいことではあります。
見ていること自体相当な暇があってのことなので、要するに暇つぶしに過ぎないだろう。暇つぶしというからには、相応の時間的余裕がある訳で、それをもってして見ている人の方が気が長いとはいえない。他にやることがないだけかもしれない。
■ もし、
もし、見ていて釣り人が獲物を釣り損ねても、
『うーん、残念』
などと呟きますが、実のところそれ程には残念と思ってはいません。
逆に、大型を釣りあげると
『お、やったー』
とも声を出すこともあります。
がどのみち、釣れても自分が釣った訳ではない。それが自分であったなら嬉しいだろうと身を置き換えて嬉しくなっただけのことに過ぎない。もし自分が釣ったなら、家に持ち帰って家族に自慢するかも知れない。尋ねもしない知人に電話報告をすることだってあるだろう。
けれども、釣りを見ているだけで、釣ったのは自分の手柄ではない。
■ お気楽
釣り人を見ているだけのこと、釣れても釣れなくても悲喜に大差は生じない。時間つぶしに丁度良いだけの事であるから、当事者と成れない悔しさを少しは感じながらも、見ているだけ。
まあ、釣り餌、釣り具やその周辺の雑多なものの用意は何ら必要ない。飽きれば、いつでもさっさとその場を後にすることも可能である。
それだから、とても気楽であるのです。だから釣りする人を見ているのです。
それは、丁度、テレビで何かの試合を見ているようなものです。どちらがどうなろうともあくまで自分に降りかかる喜びも無念さも本来関係がないのと少し似ています。
■ 釣り人にすれば
釣り人にすれば、それはそれ程気楽ではない。
釣り人は、日や時間を遣り繰りして、その上に必要なもろもろを用意して来て、家庭サービスも犠牲にして来ている訳です。
『さあ、釣ってやるぞ』
という意気込みで来ているから、何としても坊主だけは避けたい。出来れば食卓に載せられる物を釣りたいという気持ちは、焦りに刷り込まれている。それだから、餌や釣り場を替えたりする。
たとえ釣れなくても
『もう少し粘ってみよう』
となるのです。
■ 結論
結論から言えば、釣っている人の方が気長いと言えそうです。というか釣れてもそうでなくても粘るから。
見ている人は、暇な訳だけれども暇で無くなれば努力なしに帰るので「暇な時間が長い」という程度の話ではなかろうかと思う。まあ、釣りをしない人には、この話だって暇つぶしにしか読みたくないかも知れない。