自分が人の親となった時、子が成長するにつれて、他人との比較をするようになるのは、自然なことです。物をふんだんに買って貰える子もいれば、殆ど買って貰えない子もいます。
今のわたしなら、何でも買って貰えない子の方が、子の将来にとって良いと思える。けれども、当の子はそれでは辛い。その物がどうしても必要という訳ではないのかも知れません。そうであっても、自分だけが持っていなければ、つま弾きにされるかも知れない。その物の話に加われない。
その時の寂しい気持ちは、分かりますよね。
それで、
『○〇を買って欲しい』
と子は言います。
『それを買ってどうするんだ?』
と聞けば、それに対する答えはありません。ただ、
『みんなが持っているから』
となる訳ですね。みんなが持っている、は本当でしょうか?子の複数人の親しい仲間の中では、少数派であるか、子の言うとおりにその中では、子一人が持っていないのかも知れません。
しかし、それを持たない子の疎外感を思う時、
『駄目だ』
とはなかなか言えないものです。目の前で涙ぐまれて親の目を見つめられると、自分自身が一度たりともそのような経験がないのであれば兎も角、たとえそれを買ってやることが良いことなのか判断の付かないまま、
『みんなが持っているのか、、、しゃあないなあ。お母さん買ってやるか?』
元より妻は、子に与(くみ)していますので、反対する筈もありません。
『大事にするんだよ』
という塩梅に、父は敗北します。
■ 母
母は優しい女性でありました。
当たり前かも知れないけれど、こと子供に対しては無限の愛情を注いでくれた。何かについて。
『みんなが持っている』
と言えば、自分が食うものも惜しんで残した、なけなしのお金でそれを買ってくれた。わたしは、そういう母の姿が子供心に痛く響いていたから、欲しいものがあっても買って欲しいと言ったことは、殆どありません。
その「みんなが持っている」物は大方の場合、なくても何ら不自由もなければ、必要もないものでありました。もし必要なものであっても何かで代用に出来たり、加工や工夫を凝らせば、同じものではないものの、十分に同じような機能が叶えられるものばかりでした。
また、流行りから廃りの間もそれほどの期間を待つこともなかった。
思うに、人と同じものを買って貰えなかった記憶は長く残り、買って貰えたものの記憶は殆ど残りません。そして、買って貰えなかったことによる、心の傷というようなものも殆ど残りませんね。
■ しかし
しかし、その物の廃りが来て子がそれらに見向きもしなくなった時、まことに我が身の敗北感は絶大なものがあります。それが、ちゃんと棚に陳列されたり、綺麗に収納されているのであればまだしも、乱雑に床や外に放置されていると、途端に腹立たしくなりますね。
まして、それで躓いたとか足に傷がついたとかになりますと、敗北感は途端に激しい怒りとなり、
『欲しいというから買ってやったのに、使ったら片付け位せんか!』
と叱らずにはいられません。
子にとっては、それはもはや遺物であり、粗大ごみに違いありません。
「今度は泣かれても、絶対に買ってやらないから」と決心する瞬間であります。
しかし、
また、新たな何かが欲しいと子がいい、
『みんなが持っている』
『みんなって誰だ』
『○〇ちゃんや誰それちゃんや、、、』
また、涙を流されじっと我が目を見つめられると、
『ええい、しょうがないな』
というお馴染みのパターンで負けてしまう。常套句にまたしても敗北しながらも、それでいいのだろうとは思うものの、何か釈然としない。
親というものはどこまでも愚かであります。