現在日本は誰でも自分の考えや主張を述べることが出来ます。それは、大いに良いことですし、制約があってはならないことでもあります。
しかし、どのような高名でどのようなジャンルの評論家でも実のところは、先の事は分からないというのが本心です。ただ、これまでの歴史を見て、似ているところがあるなら、その結果を鑑みて、今後起こるかも知れない物事を類推して発言しているに過ぎません。勿論、その歴史の知識がある事は立派ではありますが。
■ チャート
それは、例えば株式や為替のチャートのようなもので、似たようなパタンから、それらは上がるのか下がるのかを類推しているに似ています。あくまで過去がそうであったから今回もそのように、あるいは物凄く似ている結果となるのではないかと。
これには絶対は無く、実のところ彼らでもそれ以上の事は全く分からないのです。そして多くの場合で主張や予想は外れます。それは、その時の国内外の社会情勢や経済情勢までもを勘案すると、必ずしも今の状況と似ていないことも多々あるからであります。
■ 従って
従って彼らは自分の予想が外れたとしても、何ら恥とも思わなければ、申し訳ないとも思いません。それは、誰にも分からないあくまでの予想に過ぎないという訳です。そして、多少の批判を受けたとしても「カエルの顔(つら)に小便」です。
即ち、次の考察すべき局面では何のおくびもなく、新たな主張や予想を出しています。これの繰り返しです。それが職業ですから、いつまでも前の主張や予想にこだわっていられません。
評論家等いうものは大抵がこれで、彼らを押し頂いて重宝がるのがメディアですから、始末が悪いと言うほかありません。評論家が、責任を取るなら、一年とその職についていられません。
■ 人の言うことなど聞くな
このように、彼らが主張や予想を外しても平然としている以上、その内容にあたふたとすることも必要ではありません。自らが考え想定を立て、そしてそれに沿って物事を進めて行くのが、最良であります。
評論家から友人や知人、親類縁者に至るまでたとえ聞いても、すべての人の意見は違う事でありましょう。人は、結局他人の事にそう関心はないのです。あるとすれば、自分に及ぶかもしれない利益と不利益が考えられる場合のみ。それも、自分の有利な意見しか発しません。
しかし、人は時には自分自身の考えに迷うことはよくある事です。
また、努力をすればするほど迷うものでもあります。そういう時でも、他人に答えを求めるのではなく、自らの考えの中で苦悩しながら決断するべきなのであります。
たとえ、間違っていたとしても。
そうでなければ、結局人の意見に振り回されたり後悔するしかありません。自分の考えと行動に置いてどのような結果が出たとしても納得がいくはずです。
人は、自分のやったどんなことでも許すことが出来ますから。