聖護院 京極のブログ

天と地の間に新しいことなし(ことわざ)・・・人間の行動は今も昔も変わってはいない

「お釈迦になった」とは

 

画像出典:クリアン


何か物を造る時に、失敗した場合

「おしゃかにした」とか「おしゃかになった」

などと言うことがあります。

おしゃかは、勿論「釈迦(しゃか)」の事であるのは周知でしょう。釈迦に「お」を付けているのですね。

若い頃にこの言葉の語源を教えて貰った事が有ります。それを今日まで、無二の正論と考えて疑うことがありませんでした。その教えとは、こうです。

 

『物造りをしている折、不幸にも失敗した時には誰でもこう言う。

「あ、造り損ねた。弱ったな」

と。

「弱ったな」は、「48(よわ)ったな」

でもある。即ち4月8日はお釈迦様の誕生日。だからお釈迦になったというのだ』

 

わたしは、この語源を聞いた時が小学生の高学年か中学生の低学年の頃で、以来、真贋を吟味することなく無邪気に感心して「お釈迦になった」の言葉の意味を得心してきました。

 

 

■ 別の解釈

しかし、別の解釈がある事を知ったのは、つい最近の事なのです。別の解釈でもお釈迦の語源は、わたしが信じてきたものに変わりはありません。つまり、釈迦が元になっているのです。失敗作を「お釈迦になる」といいます。

 

しかし、異論の有力なものには、釈迦の「入滅(亡くなる事)」と掛けて、失敗したとか、ダメにしたとを掛けています。

しかし、釈迦の誕生日は4月8日であっても、「入滅(亡くなる事)」は2月15日なので、4月8日をお釈迦になった(造り物がダメになった)というのはもともとおかしいとしか言いようがないのです。

 

しかし、まあそうは言っても実際のところ物造りにおける失敗作を「お釈迦になった」という言葉が定着している以上、おかしくてもどうしようも無いことではあります。

 

辞書でも、

お釈迦になる」を引くと「失敗作・不良品をつくってしまう。つくり損なう。また、(壊れたり欠陥が見つかったりして)役に立たない物になってしまう。使い物にならなくなってしまう。お釈迦が死ぬことに掛けた言葉

となっており、誕生日なのに死ぬと掛けることに疑問が残る解説です。

 

それなら、わたしが理解していた冒頭の、「弱った(4月8日)」との理解の方が、矛盾は生じませんので、これが案外正解として良いように思います。