聖護院 京極のブログ

天と地の間に新しいことなし(ことわざ)・・・人間の行動は今も昔も変わってはいない

最近の恋愛ってどう?

画像出典:oggi.jp

好きでならない人ではあるが、想いは伝わらることなく片恋のままに終わってしまった。あるいは、相思相愛なれども一緒には成れない社会上制度や家柄、あるいは経済格差による壁があるというようなことは、わたしの若い頃にはごく普通に存在しました。

 

それ故、片思いにも相思相愛にも、青白い情念の火とも言うような、くすぶり続ける相手への想いが長く続くというような事もあって、数十年も経っても、それは胸が締め付けられるような切なさで心が圧倒されもしました。

 

相思相愛の間柄では、それらの障害を越えて駆け落ちということも、何度かは聞いたことがあります。その後がどうなったかは聞こえて来ませんでしたが。それでも、それ程に深く愛することが出来たとしたら、一生の内でどんなにか幸せな事でしょう。

ただ、わたしは恋愛の最高の形は悲恋で終わる事が最高であると勝手に思う者です。昔から言う様に「遂がわば何の恋の味」(恋が成就(じょうじゅ)したら、なんだこんなものであったのか?)であろうかと思うのです。

 

■ しかるに今は

しかるに今は、そのような障壁は全くと言ってありません。無論、しがない安サラリーのサラリーマンが億万長者と結ばれるというストーリーもまた、あり得ません。が、それは双方に恋愛感情が沸き上がる事があるなら、皆無ではありません。むしろ、そうなる前に諦めているふしが双方にある気がします。

しかし、そうなる機会があったとしても、二人の行き着く先は大よその見当がつくという情報化の社会になったのが、遠因かも知れません。

 

■ 情報の過多

わたし達の古き時代には今の様に携帯電話がありませんでした。今ならたとえトイレに入っていても電話がつながるというか、呼び出しがかかる時代です。たとえ、二人が好きになってもいつでも、明け透けにお互いが知れてしまって、未知なる人格すらもあり得ません。

住所も知れれば、Google earthのストリートビューで特定も可能です。

 

昔の様に連絡を取り合うとなると、自宅の電話か公衆電話という不便さ、相手の家に電話をかけて誰が出るかも知れない心もと無さもありません。いつでも何時でも互いが了解さえあれば、連絡が取りあえる素晴らしさと同時に、なんとも言えない味気無さ。

 

これでは、「秘めた恋」など出来ようもないではありませんか?誰にも知られたくないという気持ちが、二人の思いを、好きなだけ伝えるのにままならならない、互いの愛を確認する方法が限られているからこそ、そのもどかしさや切なさが募って、会えば万感の思いが迸(ほとばし)るのでありました。

そんな経験をするにも出来ない最近の若い人を見ると、気の毒な気もします。

 

■ わたしの娘

わたしにも年頃の娘がいます。また、付き合っている男性もいます。同級生で向こうから付き合いを申し込んで呉れたそうです。娘は承諾して付き合いは数年前から始まってはいます。しかし、互いに好きでならない相手であるようでもありません。

それは、二人の仲に何の障害も発生していないことといつでも連絡が可能で、仄かでも持っているであろう恋心が試練にあうことの無さが、喚起されないからかも知れません。

わたしは、昭和という不便な時代に生まれて、告白出来る機会がなかったことを恨めしくも思い、出来なかった切ない思いのまま過ぎ去ったことを良かったとも思う。