演歌でもヤクザ映画でも何というべきでしょうか。
「北」へ流れるとか、「北」に向かうというフレーズが多く日本人は好きなようですね。北と言っても無論、北朝鮮の事ではありません。「そんな事、当たり前だ」と怒られる方、事前に悪しからず。
「北」が好きなのは、例えば昔の日活の西部劇風の映画の最近見た作品の舞台は北海道なのに、主人公が最後に、これからいずこへ?
と聞かれたりすると、
「北へ」
などとキザなセリフを切ったりします。しかし、北海道は確かに広いけれどの北の端は海ですし、アメリカの西部の様には行きません。別れて来た人に数年後にひょっこり北の端で会うかも知れないのです。
それでも、その映画を観て
『カッコいい』
など思えたのは、壮大なアメリカの西部開拓史の様な舞台が一般的でなかったからでしょう。そのうちに、日本映画では段々北へは少なくなりはしましたが、歌、特に演歌は相変わらずです。因みに演歌の始まりは明治の自由民権運動政府批判の演説時の演説歌(えんぜつか)です。
日本人は何故、「南」へ流れるという言葉を口にしないのでしょうか。
北というイメージには、寒さや人が少ないなど何かそこには、生きるのに過酷さを感じさせる。それに、それらがやっぱり寂しさをも含んでいることに、何かしらの郷愁を感じるのかも知れません。
郷愁は、捨てがたい魅力があって忘れている事もあるけれども、人の心のどこかに潜んでいて、寂しい時や辛い時にフッと湧き上がって、心を占領したりします。決して、消えてなくなくなることがない。帯状疱疹のウィルの様なものです。
反して、「南」に流れるは、およそ「北」に流れるの正反対のイメージしかありませんし、「南」には、開放的で暑く行く末も悲壮感がありません。これでは、ニヒルさも台無しになるのでしょう。
であってみれば、別れとか、哀切を感じさせるには「北」と付くことばは必須です。
「北」と言う言葉の付く歌には、思いつく限りでも
みやこはるみ「北の宿から」
石原裕次郎「北の旅人」
徳久広司「北へ帰ろう」
森進一「北の蛍」
チェリッシュ「だからわたしは北国へ」
朱里エイコ「北国行きで」
岡崎ゆき「北上川」
など。
凡そ「北」の付く題名の歌にはこの3倍くらいはありそうです。その多くが演歌、艶歌、怨歌、縁歌です。
歌の題名に「北」がなくとも、歌詞に出てくるものも数多くあります。それらを含めると数は膨大です。面倒なのでここは推測ですが。
「北」と言う字を「南」に変更しても、同じようにヒットしたりするものなのでしょうかね。どうでも良いことではありますが、ふと考えたりすることもあります。