わたしの子供の頃の家庭は貧乏に箔が付く程でありました。
父も母も体が弱く月の殆どがあまり稼げなかったからです。当然、わたし達兄弟は欲しい物があっても残念するのは致し方のないことでした。服は親戚の同年代の古着でしたし、教科書も古でした。今の様に無料配布の時代ではなかったのです。鉛筆一本でさえ、買ってくれと言い出しにくかった。
しかし、晴れ着やお出かけの洋服が欲しいとは思いませんでした。何故なら、それを着る機会が皆無だったからです。出かける先がなかったのかいえば、無くはなかったが遠くそこまでの足の手段もお金もなかったから。
ただ、お下がりの服を親戚や長兄から回って来て着る事には、子供なりの誇りを傷つけられる思いはありました。特にわたしは小柄で、見た目にも古着を感じさせないけれども、袖や丈が長すぎたりするのを、半ば強引に押し付けられると泣きたくなったものでした。新しいものを買って貰えなくてもわたしの体に合ったお下がりが欲しい。しかし果たされることの無い思いでした。
■ 今日のわたし
だから、今日のようないい歳のオッサンになっても、値段の張る高級なものを買えるとしてもそれを買うのが怖くてならないのです。わたしがそれを持つのは、不釣り合いだとどうしても思ってしまう。何か落ち着かない。それは、少し高い目の衣類でもその他のものでもです。
どこかの中古や安いもので充分ではないか?ともう一人のわたしがささやくのです。これは、きっと貧乏が染みついた結果だと思う。
チャップリンの映画で、チャップリンが出世してお金持ちになっても、盛られている食べ物を歩きながらちょいと失敬する。お金を出せばちゃんと買えるのに。貧乏な頃の生活が染みついているのです。多分、今のわたしは、お金持ちではないけどこの映画の主人公のようなのでしょうね。
今の車も来年で20年になります。買った時から中古でした。しかし、わたしはそれが自分にまさしくお似合いだと思ってしまう。そして、今度買うとしても中古車にしよう。