携帯電話は人と人の繋がりをより緊密にしその距離感を劇的に小さくしました。一刻を争う時を逃すことなく連絡を送受し、居場所を知らせることが出来ます。また、会話をしたい時に、迷惑が他人に及ばない限りに自由に気を遣うことなく話せます。
家の備え付けの電話では、言えないことも小声になる事無く話せます。なんて良いんでしょう。
しかしながら、携帯電話がなかった頃とは違った面倒も増えた気がします。
例えば、恋人同士がどこかで仕事の後に待ち合わせを前日に待ち合わせていたとしましょう。今なら、どこにいてどれくらいで到着すると簡単に知らせられます。少し遅れると謝ることも可能です。取り消すことも他に急用があれば可能です。
待ち合わせ場所には何分の電車に乗れば、最寄りの駅には何分に到着するまで判ります。寄り道したりしても、みんな携帯電話がお見通しという訳です。待ち合わせの店も、店の情報もメニューも事前に分かり予約も可能です。
数えきれないほどの情報を得ることが出来ます。
■ 面倒
しかし、便利な反面こんなことも。
電話で会話すれば簡単に済むことも何故だかメールを通して出なければならないような事が、殆どです。それは、身近な人が死んでもそのようなケースであってもそのような事もあります。そばに居る人の間でもメールでのやり取りで済ます娘には、小言を言いたくもなります。
また、どこに居ようと電話はかかって来るし、メールも来る。
返さないと、詰問されたりもします。
携帯が一般化し始めた頃の事でした。建築現場の若い監督を工事主任が探していた時でした。
「おい、お前どこにおるんやー。電話ならしたらちゃんと出んかい!」
と主任は電話口に向かって怒鳴り出しました。
「済みません。うんこしてました」
工事主任は苦笑してしまいました。携帯電話ってこういう時、面倒ですね。無い方がとても気楽に思えることが多い気がします。
■ 昔なら
携帯電話がない頃には、一度約束したら簡単には取り消せませんでした。急用が出来たり、所用が長引き落合場所に遅れることがあっても、相手の会社に電話を入れることも出来ませんでした。誰が電話を取るかわからないからです。
そんな訳で、待ちぼうけになって怒ったり、失望したり、悲観したりしたものでした。しかし、そのような連絡の不自由な時代には、苦労して逢う喜びはひとしおでした。
不便であることが良いと思える