わたしは見栄を張らない方だ。見栄を張るのは、貧乏人にとってとても辛いから。辛いというのは殆どがおカネの事になる。要するに見栄を張るにはお金がいるのだ。
貧乏人であっても、一点もので見栄の張ってものを買うという考え方もある。が、そうまでして見栄を張りたいとも思わない。そんな事をして持っても、他のどれにもそぐわないから使う時も限られる。いつもは、家に眠ったままのものだ。
■ 見栄を張りたくない訳ではない
だからと言って、わたしに少しの見栄も張りたくないという訳ではない。張りたいきもちはあるが我慢しているだけである。ただそうは言っても、最初からお金持ちがひけらかすようなものが、欲しいとは思わない事も確かだ。たとえお金がどんなにあっても。
生きていて何の見栄も持たなかったら、何と寂しいことだろう。生活に張りも無ければ、だらしなさも一向に構わないということになりかねない。
それではわたしは厭なのである。
だから、貧乏人らしくその許容範囲において見栄を張っている。それは、自身をみて少し滑稽で悲しい。けれど、その精一杯の背伸びで生活が脅かされたり、後悔したりしないから悪くはない。
■ 少し見栄の張る程度を下げて生きる
わたし達は、見栄の為に使いたくもないお金も使ってしまう。その見栄を少し程度を下げて生きられるなら、生活はきっと楽になるだろう。生きている事にも張り子の虎のような満身が周囲の目を気にするという事からも解放される。
人より少し見栄を下げれば、なんと気楽で不必要な出費が減る事だろう。悪くない生き方だ。それでも家族がいると、わたしだけがこう思っても家族が同意してくれるかはわからない。押し付ける積もりはないが、進言はするようにしているし、わたしは率先してそのような生活を送っている。