
中国の故事に
「去る者は日々に疎まれ、生けるものは日々に親しむ」がある。
去る者は、遠くに旅立った親族や友人を指すともいえるが、亡くなってしまった人を指すともとれる。現在の世では亡くなって居なくとも、常日頃会話や出会う機会が失われていれば、
「去る者は日々に疎し」
と言えるし、実際にそのように疎遠になるものである。人は自分の人生を制御出来ず、苦心しながら生きるのに精一杯である。まして、声や顔を聞いたり、見たり出来ない仲になってしまっては、親族、親友でも自ずと疎遠になるものである。
それが、吉報や訃報で図らずも出会い、変わら
ぬ温情を温めたと思える瞬間も束の間、各々の生活に埋没し、再び元の疎遠に戻るものである。そして何時しか歳をとっていく。
こう考えると、「去る者は日々に疎まれ、」会えなくなった人は、忘れされれてしまう儚さを、何か切ない思いだけが、胸を塞ぐ。それは、生きているのに遠くに去ってしまった人をともすれば忘れ去っている自分
を、相手も同じ様に感じていると想像に難(かた)くない事への危惧でもある。それが切ないのだ。
だが、この故事では「生けるものは、日々に親しむ」ともある。
そうなら、死んでしまった人にはもう会う事も話す事も叶わないが、生きている人とは、共に生き、泣き、笑う事が出来ると、生きている事への賛歌であるともとれる。
何事も、生きている内が華なのである。