聖護院 京極のブログ

天と地の間に新しいことなし(ことわざ)・・・人間の行動は今も昔も変わってはいない

100円パン屋さん

 

パンの日

近所に新しいスーパーが出来て、その建物の一角に100円パンの店も同時にオープンした。スーパーの店子としてである。100円とは少し高いパンもあるが、殆どが100円である。消費税は別なのでもう少し支払いは多くなる。

 

土日にはスーパーが開く前から多くの人が詰めかける。駐車場がパンクする。道が混み合うという事態はスーパーが出来るまでは無かった事だ。高級車で乗り付ける人もいる。高級車に乗っている人は、金持ちとは限らないのかも知れないと思う。金持ちで有っても、おカネにには厳しい事もあるだろう。

 

詰めかける客は高齢者が多い。相当に若い人もかなりいる。どちらも生活が厳しいと見られる。それとなくその人達を見る。

 

わたしがそこにいるのだから、同類には違いなかろう。相手もわたしをそれとなく見る。同類相憐れむ、という気持ちは不思議に湧かない。他人の生活に思いを巡らす程暇でもないし、情けないが、思いやりも持ち合わせる余裕も無いから。

 

買ったパンは、賞味期限は長くない。手作りだし、せいぜい買った明くる日までだ。明くる日の朝に食べたり、お八つにすることが多い。買った品数が多い場合は夕食に成ったりする。暫くはパンづくしである。

 

 

 

 

旅行に行ったら何を見学する?

 

 

旅行の本は数あれど


家族で旅行に行くときは、市の図書館のネットワークで、旅行本を借りる事にしている。マップルとかるるぶの最新版か一年前のが借りられる。旅行の都度買っていたが、直ぐに古くなる。だからと言って積ん読しても価値は上がらない。

 

情報誌は、新しいのが取り柄。最初の内は新冊を買っていたが、そのうち古本屋に変えた。古本屋のは数年落ちが最新なので、結局、市の図書館で借りるのが相当との結論に至った。

 

綺麗だし、住まいの区に無ければ別の区の在書を検索して取り寄せる事も出来る。取り寄せ本が来たら、メールを呉れるので近くの図書館に取りに行けば良いだけだ。借り物だから、書き込みをしたり破いたりすると、その後借りれなく成る可能性がある。

 

途中で旅行が中止に成れば、キャンセルも可能だが、無論違約金などとう言うものは発生しない。凡そ2周間借りられるので、旅行後返却までの数日の余裕を見て期間内と成るような借り方をすれば良い。

 

近年はデフレだったし、おカネの値打ちのほうが物を持つより値打ちがあるので、なかなか新しい建物や施設への投資が無いから、たとえ旅行本が1年程度古くても、新古車と同じで殆ど新冊と同じである。

 

勿論、旅行本では無く、Googleマップなどをある程度拡大してみると、結構な数の名勝・旧跡なども見つかる。検索で「名勝」「見どころ」などでも知れる。Googleビューでその辺りの景色を見てみると、墓標だったりして、拍子抜けすることもある。が、以外な発見もある。

 

旅行するのにおカネは節約するものだから、有名で人気の場所には外から遠巻きに拝んでおしまいである。入場料無料とか、300円までだったら入るだけなので、高額入場料の名勝や旧跡などの紹介をする旅行本もそれ程役に立つ訳では無い。

 

Googleマップの無もない墓標を見たり、道の駅や採りたて野菜市場などの情報の方が余程役に立つ。だから有名な温泉地に行っても他には何一つ、心に残るものが無い事も多い。何か一抹の寂しさは無くはない。

 

この先もコンスタントに旅行に行きたいと望むなら、わたしの資力ではこの程度が丁度良い。

Googleマップで故郷を探す

 

 

故郷をマップで旅する


生まれは京都の郡部だが、暇な時にはGoogleマップでふるさとの町や村を見る。そこに住んでいた時には知らなかった、施設や歴史的な石碑や建造物が見つかる事がある。それは今となっては、訪ねるには遥かに遠い思い出のような郷愁を起こさせる。

 

また、若い頃の生活や友人との記憶も蘇ってくる。

 

「あの道をずっと行けばどこに行き着くのだろう」

とか

「あの同級生の住まいはどこになるのだろう」

などと、いつの間にか地図を縮小や拡大、航空写真やストリートビューなどをみてしまう。だが大抵は、判然としない。特定出来ない。何となくやるせない気分になる。

 

もう、あの時代が戻る事も無いとは分かっているが、それを見ていると、無性に会いたく成ったりする。が、まあ叶わないだろう。それでよい。

 

 

古いカーナビ

 

 

古いカーナビ


今乗っている車は2011年製の乗用車である。同じ車は気を付けていればかなり市内を走っているのを見かける。同じ色の車なら、どういう人が乗っているのか見かければ確かめたくなる。

 

それは相手も同じらしく、すれ違いざまにこちらと一瞬視線が合う。お互に自分より金持ちそうなら、悪い気分はしないけれど、そうでなかったなら、見なければ良かったという少しの後悔が多少ある。

 

別に何の関係もない他人に、そのような気持ちを抱く事に罪悪感というか、比較感が湧く。

 

車に特に不満があるわけではない。何しろ45万円で車検整備付きだったし、目立った傷は殆どなかった。年式が古いだけである。

 

ところが一つだけ不満がある。それはカーナビも発売当初から進化していない点である。ナビソフトだけ買い替えれば良いのだが、それが古すぎて買って今のと取り換えても大して変りがない。もうそれ以上のソフト(CD)が無い。ほぼ生産終了時の車だったから。

 

値段に見合っているのだから、文句は無いが、高架に成った電車の線路が、なる前のままの案内で

『前方に踏切があります』

といつも言われるのには、苦笑する。

『もう高架に成っとるがな』

と答えてしまう自分が、また笑える。

 

今のカーナビって、インターネットで地図情報が更新出来るのだったかな?

 

 

車のナンバーへのこだわり。有り?無し?

 

買えるのはこの部分のみ

 

かなり雑なわたしは、自分の車のナンバーでも忘れたり、なかなか覚えられなかったりする。例えば、オイル交換に行って

『おクルマのナンバーは?』

と聞かれて、答えられない事もある。そうすると、受付の人もわたしを怪しむ顔つきになる。

 

それで、焦りながら慌てて、オイル交換カードを引っ張り出したり、スマホに保存の車の正面画像を焦りながら探し出したりして、事なきを得る。

 

其れ位だから、車のナンバーなんて車を廃車にしても、ナンバーをそのまま持ち越すなどという事には拘りがない。あっさり変わってしまっても何ということはないのだ。しかし、わたしのような人ばかりではない。世間には、ナンバーにだって、多大の拘(こだわ)りを持つ人もいる。

 

娘の結婚相手は、彼の祖父が彼の誕生日のナンバーを付けたて与えたという。そういう話にも

『へえ、ほんまかいな』

ぐらいにしかわたしは反応しない。そんな事をしても凄いとは思わないし、偉いとも勿論おもわない。

 

しかし、車を運転していると、ナンバーに拘りがある人はたくさん見つかる。

「00-01」とか「33-33」「01-23」などだ。これらはおカネを出せば買うことが出来る。

無論、開いている番号に限られるが。

 

しかし例えば、「09-09」とか言う様な番号は、よく言えば目立つけれど、何かのトラブルでは覚えれ易い番号だから、

『かえってヤバい』

と言えなくもないとゲスな考えのわたしは、そうでないナンバーのわたしを良かったと思ってしまう。

 

 

カッターナイフ

 

 

オルファカッター


カッターナイフといえば、刃全体に斜めに切り込みが等間隔で幾つもついていて、先端が切れなくなると、切込みに沿って折る事で、常に新しい刃先が使えるというすぐれものである。

 

これを考案したのは、大阪のメーカーで「折る刃式カッターナイフ」という命名で発明発売した。誰しもがその命名で、会社名のオルファが『折る刃』から来ていると、気がつく筈である。

 

発明者は、紙を切る時にカミソリを使っていたが、刃先が直ぐに駄目になる事から、苦心惨憺してこれを作り上げた様だ。それが世間に広がって行くまで、その試行錯誤の連続だったということである。全て手作業で繰り返していて、

「あいつはアホだ」

と世間から言われたという。

 

何かを成し遂げようと決心したら、

「あいつはアホだ」

と言われることを覚悟しなければならない。

 

マーク・トウェインがいみじくも言った。

「新しいものを考えついた人も、それが成功するまではただの変人にすぎない」

 

それ程の情熱が持てたら、人生って、あっという間の短いものになるだろう。そんな人生で無かった事が多少残念ではある。

眉毛ボウボウ

 

 


眉毛が長く伸びた老人をよく見かける。伸びているだけでなく密集している。

それは中国の仙人が目も覆う様に法外な多さで、びっくりする事もある。何となく笑いが出てきそうになる。

 

それはどの国の老人でも事情は同じの様で、眉毛に櫛と入れてバリカンで刈るという、荒業の動画もたくさんある。海外の人では中東系の人の眉毛は太くて密生している。人種というより、砂や太陽の自然からの防御のために自然とそういう傾向になる、と思えてくる。

 

いずれにしても、眉毛の量がぼうぼうで長いという共通点は一致している。

 

凄いと思えるのは、メガネの上のフレームに行儀悪く伸ばした足の様に乗りかかっている人だっている。さすがに笑いを抑えられない。

 

これらの原因は、歳を取ると体の新陳代謝が悪化して、若い時なら抜け落ち生え変わる筈だが、それが遅くなりのびのびになるのが原因だそうだ。確かに眉毛ボウボウの若い人を見たことが無い。

 

 

詐欺メールが増えてきた

 

詐欺メール

 

わたしへの迷惑メールが激増して来た。主にヤフーメールとḠメールを使用しているが、比較にならない程ヤフーメールである場合が多い。長く利用してきたメールアドレスなので、どこからとも無く漏れて、詐欺サイトの登録されるに至った様子。

 

ヤフーメールについて少し書けば、

送る側も、いちいち人が詐欺メールを送って来るわけでは無いらしい。いつの間にか出回ったわたしのメールアドレスを他の人と一緒に自動的に送りつけてくるパソコンソフトがあるようだ。単にわたしもターゲットの一人に過ぎない。

 

これらのメールアドレスは、詐欺側に転売されて、いろいろな詐欺サイトが送りつけてくるわけである。受信拒否をしても同じ内容のメールが来る。送り主のアドレスが、その都度変わっているので、詐欺サイトだと知れる。

 

受信者側から何らかの反応が出れば、詐欺側も儲けもの、という訳である。

 

最初の頃は、余りにも巧妙で手口に引っかかりそうに成った。本当の相手から来たのかもしれないと悩むことも合ったが、今は片端から迷惑メールに振り分けている。送り主からのメール受信拒否の選択肢もあるが、迷惑メール処理のほうが手間数が少ない。

 

受信拒否は来なくすることだが、迷惑メールは来る事は来るが、素通りでゴミ箱直行となる。メールを見てどうしたものか悩む必要はなくなるので調度いい。

 

もし、正当なメールだったら何らかの書類や警告文が来る筈だと割り切っている。これまで一度もそういう問題に直面したことは無いので、判断は悪くなかったと思っている。

 

メールに個人名が記されていなければ、まず間違いなく詐欺メールだ。

 

対策は、AIに聞くと、新たなヤフーメールアドレスを取り、その下に様々なフォルダーの様な塩梅に枝メールアドレスを取る。例えばアマゾンなり楽天なりである。そしてアマゾンを利用する時はそれを使い、詐欺メールが増えてきたらそのアドレスを削除すると来なくなる。

 

最初に新たに取った親とも言うべきメールアドレスは、他者には見えない様に成っているので、此処に詐欺メールが来ることは無いということである。今とは別のメールアドレスを取り、登録しているサイトも切り替えの手間はあるが、長い先の事を考えると、ぜひやっておいて損はない。

 

 

 

 

 

 

 

一日に1ミリでも成長したい

 

 

 


生きている限りわたくしは、日々たとえ1ミリでもいいから人間として成長したいと願っているし、ささやかな努力もしている。が、それが実際にそう出来ているかは、正直なところかなり怪しい。

 

それどころか、後退する時も少なく無い。そういう時は、どんなにどれ程の努力をしても、目的に到着出来ない時など起きる。自分の持ち合わせている能力や感情の持ち方、考え方、習慣がそれを阻んでいると感じる。

 

新しい知識を得ることや、新しい社会の動きなどいち早く知りそれを自分に合った形で吸収して生活や収入に結び付けたり、家族や兄弟などに広められたらたと思うからである。これらは副産物であり、目的ではない。

 

具体的な事は余りにも細やかすぎて書きづらい。が、公言出来るような事でもない。

たた、自分が何かに向い常に努力を惜しむこと無く、生きている限り人間として成長し続けて行きたい、それだけである。

 

人から見たらお笑い草かもしれない。何もあなたは変わっていない、と言われるかもしれない。それ程努力したところで、どうせ大した収穫があるまいにと。

 

が、わたくしには、収穫は勿論大いにうれしいが、それよりも自分が新たに知識を得たり人間として人を理解することが嬉しい。ただ、怠惰な日々は送りたくない。

 

 

音の思い出

 

 

ポリ袋


洗面所にいると、台所あたりから音が聞こえる。耳を澄ますと、ポリ袋を触るときに出るガサガサというあの音である。姿は見えないが、妻以外に住人は他にいないから、彼女が発生源に違いはない。

 

それはわたくしの遠く懐かしい思い出を呼び覚ます。同じ音をわたくしの実家で聞いた記憶。母が、何かを探すときのあの音である。

 

母は老年には記憶が薄くなって、確かに仕舞った筈の物を探しあぐねてる事が多かった。まるでネズミが何か貯蔵の食料品を探して動きまわる時の音だ。

ある時その場面の母にわたくしは尋ねた。

『何を探しているの』

母は照れたように笑った。が、

『うーん』

と気のない返事を返しただけだった。それをわたくしに言った所で出てくるとも思えず、言ってもわたくしに嘲笑されるだけだと思ったのかも知れなかった。

そして、そのままあちらを向き、あちこちを物色し続けていた。わたくしはそれ以上は何も言わず、また聞かず遠ざかった。

 

あの時の、母の探し物がどうなったかは知らない。

 

今のわたくしが聞いている妻が出す音が母のそれに重なると、わたくしは母も妻も同じように切なくなる。わたくしはそばに行って一緒に探してやりたくなる。妻が探し物をしているかはわからないのに。