貼り付けたのは、動画です。面白いです。
落語家では、桂吉兆(かつら きっちょう)さんが、わたしの落語家の一番の贔屓でした。が、50歳という若さで、2005年に早世されてからは、殆ど落語を聞くこともありません。
彼の開演時直後の毎回違った語りは、いつでも最高に面白くそのあとの落語のネタがそうでなかったとしても、聞いた満足感に浸れたものです。もちろん、ラジオでの話で、一度も寄席にはいったことがありませんが。
■ 昆陽(こや)の御池
桂吉兆さんが「昆陽の御池」というある釣り師の話に入る、前段での語りが面白かったのは、わたしが釣りが好きであり、その心をうまくとらえて話したからでした。
『えー、釣り好きの方は、ちょっとした川や池でも、通りすがりであっても、何が釣れるかなと、思われるんだそうですが、、、』
という意味合いの語りのところであったり、
『一度釣った魚を、再び水に返すのを、専門用語ではリリースというのんやそうですが、魚の方もこんなとこに針を「クイッ」とひっかけて釣って置いて、食わんのかいと、ムカついているのやないかと思いますが、、、』
なども、わたしの感性にピッタリとあって、声を上げて笑ったものです。
■ 釣り人は
釣り人である私も、旅先や出先の池や川を見ますと、
『何が釣れるのかな?』
と思ってしまいます。これは、釣りをする人なら、池や川をみたら最初に思うことで、ほぼ共通しているかと思います。
また、わたしなど、大雨の後に、普段は何もない少し広い窪みが満水しているのを見ると、
『何か魚がおるかな?』
普通の人にはあり得ない反応をしてしまうことも、珍しくはありませんが、ここまでくると殆ど病気。そういう時は、長らく釣りに行きたくても行けず、うずうずしている時などでしょうか。
■ 昆陽の御池(こやのおいけ)
昆陽(こや)は兵庫県の伊丹空港近くの土地の名前です。今も実在する大きな池は、奈良時代の灌漑用の池で、「昆陽の御池」と呼ばれていました(昆陽池とも)。現在においては公園整備となり、釣りは禁止されています。
ここを舞台にした、この落語のあらすじは、こんな風です。
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時は、江戸時代。
昆陽の御池は、殺生禁断であり釣りは厳禁のとされていました。見張り番もいるこの池にある釣り師の男が、平気で釣りをして、番人に見つかっても、咎められ罰を受けずにいました。
なぜ?
釣り師の男は、言い訳に、
「母が死に間際にあり、最後の馳走を採らせてやりたいので許してほしい」
と請い許されたのでした。複数回、この手を使えたのは、番人が変わるのを見計らっての釣りをしたから。
ある日、この話を聞いた別の男が、同じ手を使います。そして、咎めを受けずに済みました。離れたところ釣りをしているある釣り師の男は、見張り番が次に自分のところにやってきたら、どうやって言い訳をするか。以前の言い訳は、別の男の使い、はもう使えません。どうしたものか、、、
ここで、落語家、桂吉兆さんが、
『わたしの持ち時間はここまでです。』と言ってお開きになります。上手いストーリーですね。