わたしは、ケチというかお金に結構な細かい人間であろうかと思います。
他人事のようにこう述べるのは、当のわたしは、少しも細かいと思ってはいないからで、家族に言わせるとそうではなくて、「細かい」という言葉の頭に「非常に」「すごく」とかが付くというのですが。
失礼な話だと憤慨はしません。お金に苦労をした人は、お金の大切さや有難さがわかるから、自然とそうなってしまうのと思うから。だからといって、わたしと同じように苦労しろとは言わないし、お金に細かくなれとも、そんなわたしを理解しろとも迫りません。
苦労しなくて来たのなら、それはそれでいいことでしょうから。しかし、これから先のことで苦労が待っているかも知れないとは案ずる。
「一円を笑うものは、一円に泣く」という言葉もありますしね。
■ 弟
わたしの弟もわたしと同じ家庭で育ちましたから、わたしと同様にお金に細かくはあります。しかし、彼と比べたら、わたしの細かさなど知れている。雲泥のさがあります。
こんなことがありました。彼が結婚をする前のことですから、多分、二十代前半であったかと思われます。
わたしは、久しぶりに彼の下宿先に行き、暮らしぶりなどを話しておりました。彼は、わたしに缶ビールを出し、自分も空けて乾杯となりましたが、つまみがありません。周りを探すような視線のわたしに
『つまみならないよ』
とあっさり。
『あ、そうなの』
缶ビール買うのだったら、つまみくらい買って置いてもいいではないか。だいぶ前に行くと連絡していたのだから。などと思っても、それは無理というものである。彼は、まったく気が利かなくて出さないのではなく、ただ、お金に細かいがために、買って置かないだけであったからです。
■ 大捜索
しばらく、会話を交わして一段落がつきました。弟は、何やら領収書のようなものを財布から出すと、筆算で計算し始めました。計算機が、まだ日本の隅々まで行き渡っていない頃のことです。
どうも現金の出納帳(すいとうちょう)をつけているらしく、うんうんといいながら、計算をようやく終え、本日の出費の計算は終わりました。
そして、ボロボロになった布の財布からお金の有りっ丈を出して、数え始めました。
『一円足りん』
『え!』
『一円足りんぞお、おかしいな』
『一円?』
わたしは、まあそれ位ならなくてもいいではないかと思い、ちゃぶ台の皺くちゃの紙幣や、小銭を見るともなしに見ておりました。
『おい、ちょっと、そこどいてみろ』
というのです。わたしが席を立つと、薄汚れた座布団を引くり返し、かつ、はたいてみて、
『ない、ない、お前知らんかあー』
と、わたしにお鉢がまあってきました。わたしは、先ほど来たばかりなのに。
『わし、知らんがな、、、』
とうとう、その場では見つからないまま、話も途切れて御仕舞い。そのあとは、場は白け、弟は尚もあきらめが付かないのか、わたしの周りを嗅ぎまわる犬のように探していましたが、四畳半の部屋をどのように捜索したところで知れています。
■ 無くなったのではなく
バタバタとした結末は、本当に呆れます。一円の行方はなんと、彼の計算間違いであったのでした。それは、数日後、わたしが一泊の礼を言うために、再び彼に電話をした時に判明したことで、
『あ、あれな、すまん、計算間違いやった』
電話口で、弟がわずかにはにかんだようでした。
彼はそんなお金への細かさでも、今も変わらず私と同様にお金持ちではありません。