聖護院 京極のブログ

天と地の間に新しいことなし(ことわざ)・・・人間の行動は今も昔も変わってはいない

他人の靴を履き替えて帰る時代があった

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イメージです

画像出典:piterest

 

今の日本人は、学校教育の恩恵か人の物を黙って持って行ったり、古い自分の持ち物を他人の比較して新しいものとを交換して持って帰るというようなことは、殆どあり得ません。

 

道徳を学校教育で教えられ、育った人たちが日本の主流を占めている時代になったからでしょうか。海外の試合に日本人が遠征しても、自分たちの応援席や選手のロッカーなどは、綺麗に清掃してから離れるということが、たびたび海外から賞賛を受けたりしますが、これらも道徳教育の賜物です。

 

落とし物があれば、交番に届け、落とした人に直ぐ気づけば追いかけて行って、渡すなども国内では極く普通に見かけることであります。

 

■ 子供の頃

翻って、わたしが子供の頃には、そのような道徳的な行動は誰も取ってはおりませんでした。あるいは、わたしたちの村や町のごく一部だけの事だったのかも知れません。しかし、兎も角わたしの村にはそのような道徳的な行動をする人は、殆ど居なかったと思います。

 

財布が落ちていれば中身だけ抜き取るなどということは、ごく普通でしたし、罪悪感もありませんでした。

 

■ 人が多く集まる会

「村人が多く集まる会には、よい靴やサンダルを履いていくな」

とよく言い合ったものです。会が終わると直ぐに、靴脱ぎ場に行き、自分の物を確保しないと、誰かが自分のものと履き替えて帰ってしまう、というようなことは日常茶飯事であったからです。

 

■ 残されているのは、ボロボロ

こういう集会では、靴脱ぎ場が込み合うのを避けて、最後に帰ろうとすると、自分の履いてきて靴が無くなっていることが普通の出来事でした。

『しっかりしていないからだ』

と親には叱られたりしました。

 

ただ残された履物は、見たことも無いものでボロボロのものでした。

勿論自身の物ではありません。誰かが自分の物より良いものを履いて帰ったのです。では、誰がそのようなことをしたのでしょうか。その真相は迫れません。最初に誰かが、一番良い靴を履いて帰り、それを履かれた人が次に良いのを履いて帰りという風に連鎖しているからです。

 

当然ながら、すべての人が同じことをやった訳ではありませんが。

 

■ 裸足で来た人はいない

最後に出た人が、履いて帰ったのはこのようにしてボロボロの履物でしたが、一足分はともかく残っていたので、裸足で集会に来た人はいなかった、という事にはなりますね。

 

わたしも何度か他人の履物を履いて帰ったことがあります。これらは、余りにも目立つものでは、後日見つかってしまうこともあり、そこそこの物であったと思います。親は、それを非難もしなければ、特別に褒めてくれる訳ではありませんでしたが、新しい履物を買う時期がずれた事は、当時のわたしには、手柄であったと言えます。

 

■ 今は

今はさすがにそのようなことはあり得ないと思います。よく落とし物が木に掛かっていたり、誰かが預かっていてくれたりすることがありますから。