聖護院 京極のブログ

天と地の間に新しいことなし(ことわざ)・・・人間の行動は今も昔も変わってはいない

カレンダーの白紙の裏

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画像出典:Pixia

 

家の壁に吊るしてある月ごとのカレンダーをめくり取ったら、その紙をどのように処分していますか。当然のように新聞や雑誌と同じように古紙として、出そうとするのが当たり前でしょうね。

 

しかし、わたしはその裏が真っ白である場合には、そうはしたくないのです。裏返して、折って四等分にして分割するとメモとしたり、絵を描いたりできるからです。まあ何ともみみっち話ではあるのです。

 

しかし、子供の頃、貧乏であった頃には新聞紙の広告の裏を計算用紙にしたり、絵を描いたりした記憶が頭の中に、ドンと胡坐をかいていて、

『おい、それを捨てるのか。裏が白かったら使えるだろうが』

と、心のどこかでささやくのです。とはいっても、わたしは精神病ではありません。そういう記憶が蘇って、

『捨てるのが、勿体ないな』

と思ってしまう。

 

「勿体ないは卑しいからだ」という言葉もあります。確かに卑しくはあるのでしょうね。しかし、それを捨てるとなると、どうしても心が痛むのです。多分、こんな人は多くはないでしょう。

 

■ 娘

わたしの娘は、そのようなことをしろと言ってもしません。メモはメモ帳にするもの、メモ用紙として売られているものを使うものと決めています。そのメモ用紙もほんの少し使っただけで、厭になり次々と目移りして新しいものを知らぬうちに購入しています。

 

わたしは気が付くとわたしの思いで指摘はしますが、娘に強要はしません。今の時代には今の時代の生活スタイルがあると思うから。しかし、無造作にメモ帳から破って捨てるのを見ることはやっぱり心が痛む。

 

■ 公設市場

わたしの思い出の中には、京都市内で未だ公設市場が残っていた頃の残像があります。その、古ぼけた建屋の市場には、雑多な職種の店が連なっていました。それぞれが、簡素な仕切りで仕切られて、僅かな売り場の中で、声を上げ懸命に客を呼んでいたのを、昨日の事のように思い出すことができます。

 

そこには薄暗い店先に立って、日々の商売にどこか疲れた顔がありました。そして、天井辺りから下がっている竹かごの中に、売り上げの小銭や紙幣が無造作に詰め込まれていました。そして、客が支払ったり、釣銭を返す時にはゴムひもで吊るした籠を引き寄せて、受け渡しをするのを、わたしは商売の原点であると思ったものです。

 

そして、買い物をすると、新聞紙や色刷りの広告に包んで、輪ゴムで止めた商品を返してくれたりしたものです。新聞紙と言う読み終わった紙を又、商売に利用するという、また、メモにも広告の無地の裏面を計算用紙代わりに利用して、、、

わたしはただただ、その商売の逞しさにも心打たれた。

 

そのような商売をしている人は、露天商の人以外には殆ど見かけませんが、見かけるときがあったら、何だかとても親近感が湧いて来てしまうのは、再利用する姿に共感できるからです。