若い頃、ある個人経営の建築設計事務所に一人所員として勤めていた。経営者が二人の若い所員を入れた。仕事にも無難にこなせたし、給料もかなり高額となったのを負担に思ったのだろうか?
その後暫くして、若い所員二人が仕事に慣れた頃に、わたしは解雇の憂き目をあった。が、友人のツテですぐに働き口を見つけることができた。前職よりは給料は落ちたが何もしないで食える程の貯えも無く、否応なしに働くしかなかった。
だからといって、解雇した事務所の所長を凄く恨んだことはない。経営者の判断だから。しかし、全く恨まなかったかと言えば嘘になる。
■ 二人の若い所員
新しい職場で働き始めた頃に、前の職場である設計事務所の噂を聞いた。
二人の新しい所員の内の一人が、親の建設会社の倒産でで夜逃げしたというものだった。
『へえー』
とわたしは言ってそれを教えてくれた、知人の顔をみた。知人はわたしがどんな反応を見せるのか興味深げだった。その建設会社はよく設計事務所に出入りしていた。
わたしは、その時確かに、情けなくも、わたしを解雇した設計事務所の所長に起きた不幸に溜飲を下げた気がその時はした。
程なくもう一人の所員が、彼女とドライブ中に傍の水田の用水路に車ごと転落して、彼女は助かったが所員は助からなかった、という話を同じ知人から聞いた。水路は浅く水量も多くは無かったという。そして所員は溺死だった。
そして、所員が総ていなくなった事務所で所長が途方に暮れている顔が浮かんだ。
■ 不幸は集中してやって来る
用水路に落ちた事故死から2年近くが過ぎた歳の瀬に、設計事務所の所長の義弟にあたる人から喪中ハガキが届いた。年賀状のやり取りはその時にも残っていたから、届いたのであろう。
そこには、所長の妻がガンで他界し、新年の挨拶を辞退するとあった。
わたしは、所長の奥方を良く知っていて、急逝には驚いた。若く背が高く非常に溌溂として趣味のテニスは欠かさなかった。優しい人であっただけに、ハガキを見て暫くは言葉が無かった。
子供も二人いて、二人とも小学生であったかと思う。それを思う時かつての憤りは消え、不憫に思う。
思えば、不幸は不幸を呼ぶと言ってよい。弱り目に祟り目というように、あたかも空気が弱い部分から破裂するように、弱い部分に集中してやって来る。我々も十分に気を付けたいことだ。
今、所長がどのような暮らしぶりかは知らない。どうか元気であれと願う。