聖護院 京極のブログ

天と地の間に新しいことなし(ことわざ)・・・人間の行動は今も昔も変わってはいない

明日は明日の風が吹かないかも

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画像出典:風と共に去りぬ ラストシーン


 

映画の風と共に去りぬの名シーンと言えば「明日(あした)は明日(あした)の風が吹く」ですね。しかし、これは日本語訳です。この映画が上映された時から、日本では一躍有名になりました。ビビアン・リー扮するスカーレット・オハラが最後の場面で言った言葉の日本語訳です。

 

英語のセリフは実はそうではありません。どう見てもそのような訳にはなりません。「Tomorrow is another day」がそうです。言葉に忠実なら「明日は今日とは(きっと)違う日になるわ」。もう少し砕けて言えば、希望を持って「明日という日は今日よりもっといい日なる」と訳すべきだったでしょう。

 

「明日(あした)は明日の風が吹く」とは「今日強い風が吹いたからといって、明日も同じように吹くとは限らない」であり、転じて「明日のことを今日案じても仕方がない。明日のことは明日に任せよう」という意味になります。

 

この言葉は、幕末から明治の時代の動乱時に歌舞伎のセリフをかいていた河竹黙阿弥( かわたけもくあみ)という人の作の中のから、転用されたようです。

 

従って、彼が生きた時代、自分の生死が判らないような動乱の時代の一日にあっては、このような言葉もあり得たことでしょう。また、生きていることが精一杯で明日生きていられる保証はない、そんな時代の太平洋戦争の終戦日1945年から僅か7年目の映画上映でした。

 

その言葉が、戦中戦後を生きてきた人々の心境にぴったりだったのは、当然だったでしょう。映画の公行は当たり、「明日は明日の風が吹く」は一躍流行語となりました。

 

また、1958年に上映された石原裕次郎さんの同名の映画も当時の若者の支持を集め、彼のキャラクターからニヒルさが意識されるようになったと思います。縦横無尽に気まままに生きる、ニヒルな男という訳です

 

 

十代の間に広がる新たな人生観「陽気なニヒリズム」とは?

2020年01月05日 12時00分 

 

虚無主義(ニヒリズム)は、「人間の存在に意義や本質的な価値などはない」と主張する哲学的な立場です。そんなニヒリズムが10代の中で再び広がり始めていますが、そのニヒリズムは今までのものとは一風変わっているようだとイギリスの大手一般紙のガーディアンが報じています。

ニヒリズムの初期の概念を生み出したのはキルケゴールですが、それを現代的な概念にして広めたのはニーチェです。ニーチェの没後から100年以上が経過した現代で、ニヒリズムが10代の間で再び流行の兆しをみせています。

しかし、現代で流行しつつあるニヒリズムは今までのものとは異なる「陽気なニヒリズム」というのがガーディアンの主張。従来型のニヒリズムが「人生に重要なものなんてないんだ…… 私の人生は、一体なんなんだ……」といったものであるとするならば、陽気なニヒリズムは「人生に重要なものなんてないんだ!だったら人生を楽しもう!」というような考えだとのこと。

10代の若者の間で広まっている、「洗剤を食べる」「コンンドームを鼻からすすって口から出す」といった危険な遊びをTwitterInstagramなどのSNS上に投稿するという流行が、陽気なニヒリズムを助長しているとガーディアンは主張しています。

 

 また、インターネットで公開されている、「TED」での高校生の発表もありました。

TEDの講演より

この講演の中で、Skjoldborgさんは、同じ学校の生徒に向かって「あなたが今死んだとしても、大局的に見れば何も変わりません。もしあなたが生まれなかったとしても、誰も気づきません」と語りかけました。

 

しかし、従来型のニヒリズムと異なるのは、この後に彼が「人生に意味がないということは、悲しいことではありません」と続けた点。

 

Skjoldborgさんは、「もし私たちの人生に価値がないとするならば、意識の一瞬一瞬において幸せを見出す方法を探すというのが私たちにできる唯一のことなんです」と訴えました。

 

 

 

この高校生は従来のニヒリズムではない、と主張していますが、その主張は明らかにニヒリズムです。

 

ヒルニヒリズムの略語です。

ではニヒリズムとは。

ニーチェの提唱する生き方が有名です。その生き方を二つ提唱しています。

① どうにもならない状況にあっては、成り行きに任せて生きること。

② どうにもならない状況にあっては、今を懸命に生きること。

 

今の世において、明日の生死をも知れない動乱の時というものはありません。あるように思っていたいか、自らの殻の中に入り込み八方塞がり的な状況を作り出して、積極的に人とのつながりが持てない状況にあることに、言葉の意味を重ねているだけなのではないでしょうか。

 

つまり、遠い過去や昨日という日は、今日という日と繋がらず、明日という日にも繋がらない。さらには将来にあってはなおさらであるという訳です。自分がどのように努力しても、大金を掴めそうにもない、出世できそうにもない、明るい未来にも手の届かない世界であると。

 

平和でありながら、生まれて来て、自分の未来は何一つ希望がない。経済格差の中で必死にもがいても、どうにもならない、平和な時代であるのに。それはある意味戦時中よりもっと残酷であることを知る瞬間でもあります。

 

 

それなら、今日という日を明るく自由に生きていられたらそれで十分だ

 

ガーディアンの報道でもTEDの講演での主張でも、今を楽しく生きられれば、先は知ったこっちゃない、なのです。

 

 

■ 過去・現在・未来は繋がっている

しかし、過去は現在に繋がっており、現在の自分は過去の自分の創造物です。同じように現在が過去となる時には、未来は現在になります。生きている以上、過去を知り未来が明るいもの、より良いものとして目的や目標を持ち努力を重ねて生きなければ、場当たりに生きれば、やがては行き詰ってしまいます。

 

 

■ 明日は明日の風が吹かないかも

場当たり的に生きなくとも、行き詰まることはあります。

病気や怪我で自由な行動がとれなくなったり、明日必要なお金が無くなって、頼る人もいない。そういうことが、いくらでもあり得ます。

 

しかるに、場当たり的な生き方、即ち今日という日はを成り行きに任せて生きる、或いは、明日のことはどうなるかは知りたくもない。今を懸命に生きるだけだのの生き方が、行き詰まらないことがあるでしょうか?

 

家をローンでかったり、結婚して子供を育てたり、健康の為に運動をしたり、資格を取ったり、するのは、すべて将来を見据えての行動です。そういうものを、放棄する、あきらめるの生き方は、最終的に行き詰まります。

 

行き詰まって、明日の風が吹かないからといって、自身が煙のように消えてなくなることは有りません。その時、あっさりと死んでしまえるでしょうか?

 

将来に渡って惨めな思いをしながらやはり生きているでしょう。その時、「蟻とキリギリス」のようにキリギリスと同様、死んでしまうことが、出来るでしょうか?

 

『社会が悪い。制度が悪い。こんな風になったのは、あいつらのせいだ』

と言い出しはしないでしょうか?それさえ言わなければいいのかも知れません。誰の助けもいらないのであれば。