題名は失念しました。詩人田村隆一氏のある作品の一部分にこんなのがあります。
「生きているのが花 そう言ったお前 お前はあっちを向いたままだ」
覚えているのは、たったこれだけ。
また多分、前にも後にも、もっと長かった気がする。それに、本当にこの通りのフレーズであるかも少し心もと無い。わたしが高校生の頃に図書室で偶然に見かけた本の中にそれはありました。
「あっちを向いたままだ」とは死んでしまったという意味でしょうね。思うに田村氏はこの時人生において、死んでしまった妻を想い寒々としてた孤独であったのかも知れません。
生きているのが花。そう、やっぱり人は生きていてこそそこに意味があるのでしょう。どんな理由があろうと死んでしまっては、もう一本の惨めにしおれた花ですらない。
生きていると、辛い、寂しい、悲しいなど様々な惨めで不幸に思える時はあります。そのことの方が良いと思えることよりはるかに多い。けれども、それが永久に続くと思える時でさえも耐えて生きていれば、それも懐かしものとなる時がきっとくると田村氏の妻は言いたかったのかも知れません。
そして生きていてよかった、もう少し生きてみようと思える時が来る、花と咲く時もある信じて生きてね、とも。
生きたくても生きられなかった人の反対側に、死にたくても死ねない人もいる。人生はまさに皮肉で混とんとしているけれど、生きてりゃそれはめっけものというものです。神に生かされていると思って生きることとしよう。
とわたしは思いたい。
■ 幸せなこと
しかし、一生の内に一度も死にたい、死んでしまおう、と考えたことがない人は相当な幸せ者という他はありません。これには少し皮肉も含んでいますが、どんな困難があっても、それを克服するために手段を選ばない、とか、犯罪にすれすれや少し染めても断固生き抜くという人もいる訳で、褒められたことではないものの、それはそれで死ぬよりは良いのかも知れませんね。
■ 大した理由がなくても
死ぬことは思い詰めてそれが昂じてそれに至ることもあるけれども、何かフッと「死のうかな」と突然に脳裏に浮かぶ事もあります。
それは、全くの突然の事である事で死のうと思った本人すら驚くことすらあります。
心に死の影が差すようなら誰かに相談したり打ち明けたりすれば良いのかも知れない。けれども、それが出来る内は本当に死ぬ気はないのだと思う。もし、その気であるのなら相談する筈がないし、してもしょうがない。それに突然に自殺が思い浮かんだならその時間さえもありません。
死のうと思う時の気持ちがどんなものかは、本人以外に知る由もない。しかし、それは死ぬ理由が大したものでもない時だってある。
『こんな歳になって、俺は何をやっているんだ?今のままの生き方がずっと続くのか?』
と疑問が浮かんだり、
『俺がたとえ死んでも、妻や子は少しも困りはしない』
と思った時であるかも知れません。
それは、他人から見れば実に些細で他愛のないことに思える事かも知れないのです。他人に相談なんてとても出来るような理由ではないのです。
ただ、死のうと思う人は外見とは裏腹に、誰にも心が繋がってはいないという砂を噛みしめるような「孤独」であると思う。この孤独だけは殆ど耐え難い。