聖護院 京極のブログ

天と地の間に新しいことなし(ことわざ)・・・人間の行動は今も昔も変わってはいない

年賀状に思う 1

 

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画像出典:Wikipedia


今年も早師走となりました。

 

年賀状を用意し始めましたが、テレビでの郵便局のテレビCMは見かけません。あまりテレビを見ないので、わたしが知らないだけなのでしょうか。

 

出した年賀状に新感染症のウィルスが付いているのではないか、と思われるのも厭ですが、その逆も厭でもあるという人も少なくないでしょうから、

 

『あまり大々的にテレビCMをやらんとこか』

『そやな、年賀状で感染した言われたら、かなわんさかい』

 

と関西弁風に日本郵便を代弁すれば、このようになるのかも知れません。

 

 

■ 年々減少

我が家は、年賀状の送り枚数は、年々減少しています。多い時では、夫婦で180枚くらい出しておりましたが、今はその半分にも満たない。それは、若い時ほど交友関係が広くなくなってきているのかも知れません。

 

 

■ 長く会っていない人

年賀状のやり取りはあるけれども、もう長いこと会っていない。一年とかではなく五年以上とかも殆どです。それでも、年賀状だけは欠かさないということで、相手も同じ思いで出しているのであろうか、とか思う。

 

これだけ会っていないし、この先も会いそうにもない。出すのを止めても良いだろうとは思ったりもします。何しろ、電子メールがある時代ですから。

 

 

■ 不幸があると

相手に不幸があると、年末までに年賀状の辞退のはがきが送られてくるのが一般的。それで、パソコンの住所録から送るリストから、チェックを外して印刷。ところが次の年もそのまま出して、相手から来てから大慌てで返すこともすくなくない。

 

そこからやり取りがぎくしゃくして、次の年には来なかったりします。しかし、こちらは申し訳なさもあり、忘れずに出す。しかし、相手からは来ない。すると、次の年には、

 

『去年来なかったから、あの人は出さなくてもいいだろう』

と思っていると、来たりして調子が合わない。相手も送ってこないし、こちらも送らない。

 

『もう、出さなくてもいいかな?』

とは、思うもののこちらから断つのも厭なもので、来たら出す。

 という風に展開して、また、通常通りに続いたり、そのままになったりする。

 

 

■ 手間暇がかかる

年賀状作成には、全部手書き、または文面側は印刷で、あて名は手書きとするか、あるいは全部を印刷とするかです。あて名は個人情報にもなるので、自分で何らかの方法で記入するしかありません。いずれにおいても手間はかかります。

 

『この忙しい師走に、年賀状作りか!』

とぼやきますと、

『師走言うても、お父さん、何にもいつもと変わらんがな。どうせ暇やろ?』

と娘にいなされて

もっともであるが、しかし、何か気ぜわしい。

 

 

■ 書き損じ

手書きの場合は、書き損じが出ます。何枚も書くうちに、張り詰めた気持ちが一瞬緩む時がそれで、まさか修正テープという訳にも、砂消し使用でもよろしくない。貰った人は、一瞬で書き損じが解ってしまう。

『ははあ、年賀状をワシの分は、ケチりよったな』

と思われるとやはりまずい。

 

その点プリンターでの場合は、書き損じはありません。しかし、インク切れが起きると気が付くまでに数枚の損失がでます。これも、勿体ないからと、気心の知れた知人に送ると

 

『あいつ、印刷の失敗分を俺に送ってきよったんやな』

『まあええわ、ワイも同じことするとおもうから』

てなことでうまく収まりますかね。

 

しかし、プリンター印刷での最大の難関は、郵便番号の四角い枠の中に番号が綺麗に印字できるか、にかかっています。最新のプリンターでは調整も簡単のようですが、古いプリンターの場合一苦労です。

 

 

■ 試し刷り

市販のため試刷りのハガキと年賀はがきの郵便番号の四角い枠が微妙にずれています。重ね合わせるとわかります。ピッタリとはいきません。試し刷りではうまく納まっても、本番ではずれてしまう、というあってはならないことが起きてしまいます。

 

それで、年賀状の幾枚かが没となり、試し刷りも相当消費して、何か損ばかりの気がしないわけでもありませんね。止めたいが止められない。何か落ち着かない師走の正体は、年賀状作りの憂鬱さなのかも知れません。