30歳代終わり頃までは、日々の生活や毎日の仕事に心を奪われて、綺麗な花が咲いていても、名もない可憐な花がひっそりと咲いているのを見ても、特にこれと言った感情も湧きませんでした。
確かに、綺麗な花を見れば
「綺麗だな」
と思うことはありました。しかし、それは単に色合いのことであって、それ以上に踏み込んだ感情が特別に起こることもなく、惹かれることもなかったのです。従って、けばけばしい花や、地味な形や色合いの花などに、その花が持つその花ならではの個性を評価できませんでした。見向きもしませんでした。
■ 生活
その頃のわたしの生活は、ギリギリという訳ではありませんでしたが、咲く花を見てそれ程にも関心を寄せることが無かったのは、心に殆どゆとりがなかったからであろうかと今になって思います。
■ 友人のことば
友人と出かけた先で見かけた名前を知らない花を見て、わたしが
『綺麗だな。なんていう花だろう』
と言ったことがありました。最近のことです。自然と口を衝いた言葉でしたが、彼はそんなわたしの顔をマジマジとみて、あきれるように言ったものです。
『へえ、花をみて綺麗だなっていえるって凄い。僕は、花を見ても何とも思わんから』
と言ったのです。彼はわたしより10歳は年下です。
彼と同じくらいのわたしを彼に見るようでした。
わたしとて、咲く花をみて関心を持てるようになったのは10年程前からです。生活に余裕はありませんが、心には何故か余裕が持てています、今は。もう、どれ程にあがいても、わたしの人生が劇的に変わるとも思えないという思いがあるからでしょうか。諦めの心「諦念(ていねん)」が持てたのでしょうか。
■ 妻
妻は、1㎡にも満たない花壇に、四季の花を見つけては買ってきて植えたり、花瓶に差したり、玄関付近に並べたりしています。彼女は、わたしのように、何事にもあくせくしない人で、よく言えばおっとりとしてい、悪く言えば鈍感なのが良いのかも知れません。
花を見て、
『わあ、変わった色合い。形も変わっているけど、渋くていいいなあ』
とか、
『けばけばしいけど、この花は独特やね』
などと評価しながら、長い時間を花売り場を歩き回る彼女を見ていますと、今の生活がまんざらでもないのかも知れないとほっとする瞬間でもあります。