聖護院 京極のブログ

天と地の間に新しいことなし(ことわざ)・・・人間の行動は今も昔も変わってはいない

他人の暮らしぶり

 

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画像出典:幻冬舎ゴールドオンライン

 


軒を接するほどの近接した隣家は村一の素封家で、一方の我が家は「赤貧洗うが如し」ともいえる貧しさで、対象的でありました。母はいつも、ため息をつきながら

『カネがない』

と何度もこぼしたものです。それはほとんど口癖でした。確かに、大きな米びつの底が見える程に米が減り、母が近所に借りに走るようなことは、わたし達子供が食べ盛りの頃には、暇(いとま)がないほどでした。

 

■ 気楽な生活

母は話好きで、隣家をはじめ近くの家の同じ女たちと長話をしてきて、その時に仕入れて来た女たちの豊らしい生活ぶりをいつも羨ましがりました。その話が、どこまで本当であるかとか、少し誇張しているのではないかとは少しも疑わないままに。そして、口癖に

『良子さんちは、娘さんが良いところに嫁いで、仕送りがあったりして、生活には困らないらしい』

とか

『静子さんとこの息子さんは、良い会社に入り、出世して安心だそうな』

とわたし達に告げるのでした。その時にわたし達に向けられる眼差しには、わたし達の将来に対する期待に溢れていました。

 

母は、父との豊かな暮らしを将来のわたし達に望みに繋いでいたのでした。そう思うことが生きがいであったのかも知れません。それは、わたしが十代半ばをようやく過ぎたころのことでありました。

 

父は母のその話に、苛立ち権高に叱り、母を黙らせたものでした。父は父で、道楽や気まぐれにしか働かないというようなことは無く、身を粉にして働いたのにも関わらず、わたし達の生活は上向く気配すらなかった。

 

父は、さすがに老後の身の上を母のようにわたし達に期待することもなかったように思えました。あったのかも知れなけれど、その素振りすら見せなかったのは、父の精一杯に男としての誇りを守りたかったのかも知れません。

 

■ 卒業後

学校を出てから、一日も早く母の願いをきっと叶えてやりたいと何度も思い決心もし、努力もしました。しかし、わたしも働き始めて十年近くに至っても、前途はまるで闇のように見えず、見通しも通らない当時の生活に、苛立ち焦りを抱いて、むなしく年月を重ねるばかりでした。

 

■ 両親の死

母は、其の後風呂のに浸かっている時に急死し、父は、その数年後に肺炎で他界しました。わたしは、悲しかったが、ほっとしたことも事実です。わたしの胸に重くのしかかっていた両親の老後の生活の助けが無くなったのですから。その気持ちを人に言えば、それは何とも卑怯で冷たい心だと非難されるかも知れない。が、事実でありました。

 

今なら、十分ではないものの、なにがしかの金銭的な援助は可能ですが、

「孝行したいときには親は無し」の言葉通りにあります。

 

父母に何かしてやれたのかと思い返すと、二度の温泉旅行に連れて行ったことであろう。それには、二親は子供のように喜んでくれたことが、今のわたしの唯一つの慰めでしょうか。