聖護院 京極のブログ

天と地の間に新しいことなし(ことわざ)・・・人間の行動は今も昔も変わってはいない

「去る者は日々に疎し」

 

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画像出典:Yahoo!


人は誰でも、身近に居る人間を愛する傾向があります、男性であっても女性であっても。

 

無論、手の届かないアイドルや有名スポーツ選手などを愛するということもありますが、それは決して手の届かないと割り切った上でのことか、上手くやればもしかすると手が届くかも知れないという気持ちを持っているかのいずれかであろうかと思います。

 

■ 若い頃には

若い頃にはこのように手に届かないアイドルを愛するのとはまた別に、実生活では自分の身の周りにいる人間もまた愛するものです。しかしいくら好きであっても、遠く離れていくとどうしてもその愛の感覚が希薄になるのは否めません。

 

それゆえ、

「去る者は日々に疎し」

と言います。よく、昔の日本映画などでのシーンでは、東京と言う遠い都市に一旗揚げようとして、出て行く青年がいます。こういうケースでは、出て行くのは男性と決まっています。

 

『きっと迎えに来るから、待っててくれ』

と、恋人を残して出て行くというシーンですね。しかし、青年は思うに任せず芽が出ないで、日々格闘しているうちに、故郷の彼女は別の男性と結婚してしまう。

 

■ 映画「ひまわり」

この男性の場合でも例えば映画「ひまわり」などもありますね。

 

恋人と別れて他国の戦争の前線に出て行った男性が、その国の女性と結婚もし、子供もいる。そこへ、恋人が男性を探しに来て、男性の暮らし振りをつぶさに見て、衝撃を受けて立ち去ろうとします。男性は恋人に気が付き追いすがる。しかし、恋人は動き出した列車に飛び乗り去って行く。列車の中で号泣する恋人。

 

映画「ひまわり」のストリーはおそらく戦争前線に出て行った男性は、きっと恋人はわたしのことを待つことは出来いで誰かと結婚したに違いないと思ったのかも知れません。戦争のさなかに、互いにその生死を知る由もありませんから。

 

しかし、

 

こうした、話は映画だけの事ではないし、昔の話だから今には無いという事でもありません。そもそも昔と言ってもたかが知れてる遠くない昔で事です。その僅かな間に人間が本質的に変わってしまうものでもありません。

 

従って今でも、同じであると思います。

 

■ ネットが充実している

昔とは大きく違うのは、今はネットというものが充実しており、顔でも生活の様子でもリアルタイムである程度は互いを知ることは可能です。しかし会って顔を合わせて話すという事は出来ません。幾らネットでつながっていても、恋人としてのある基準を超えると、諦めに変わるのかも知れませんね。

 

やっぱり身近な存在の異性ということになります。女性は、男性に比べれば、「何より今」を大事にします。過去がどのようであれ、今が充実しているのなら、それを大切して暮らそうとします。

 

未来のことも、勿論女性は慮らない訳ではありませんが、一番大切なものは「今」であります。その考え方は、男性には理解できなくはありませんが、同じには成れません。それゆえ、すれ違いは起きる。

 

■ 鬼平犯科帳

池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」の中で、

昔、親友と練習に通った剣道の道場の一人娘が、その後の人生が有為変転して、今は奉行所の白洲に座っている。鬼平の顔を見て初めて見るような目つきに、一人娘に焦がれていた鬼平の親友は、その変わりように衝撃を受ける。裁きの後、鬼平が親友に言う、

「「女という生きものには、過去もなく、さらに将来もなく、ただ一つ、現在のわが身あるのみ……ということを、おれたちは忘れていたようだな」
(第1巻『本所桜屋敷』)

 

 まあ、女性からは反論はあろうかと思いますが、大筋で認めない訳には行きません。妻を見ておれば尚のこと。