未婚者が既婚者のいづれかの異性に恋をする、またはその逆の関係であるとか、あるいはどちらも既婚者でありながら他の既婚者の異性に引かれる、というようなことは日常的によくあり得ることであります。
それらは、今の社会には倫理に反すると非難されるものではあります。しかし他人を恋をするということは、自然発生し誰にも押しとどめることが出来ません。
■ 割符(わりふ)
人は、人生を歩んで行く時、自分に好適であると思う異性へのイメージを心に割符のように持っているものです。
ここでいう割符は神のみぞ知る事柄で、いつどこで異性に邂逅するかは、誰にも知る由もありません。しかし、もし自分の割符に合うもう異性を接すると、自分が思い描いていたものであると瞬時に知れるものです。
それは、目と目があった瞬間に体の中を電流が駆け抜けるような思いがする筈です。ですが、それはいつそうなるかは、だれも知ることは出来ません。
木片や竹片などに証拠となる文字などをしるし、それを二つに分割したもの。木の札などに文句・文字などを書き、中央に証印を押し、これを二つに分けたもの。当事者どうしが別々に所有し、後日その半分ずつを合わせて正当な当事者であることの証拠とした。
■ 今の夫婦は偽りなのか
では、現在結婚し夫婦として暮らしている人は、互いに割符を持ってそれが合わさって結ばれたのでなかったのでしょうか?それは、そうとも言えない。
自身の周りに自分にピッタリと合う相思相愛の人が現れそうにもない、そういう人をいつまでも待ってはいられない。という思いがあります。恋焦がれる程ではないものの、相手に不足もなければ嫌いでもない、むしろ好きな方であるという程度で結婚とは、実はしている人は少なくない。
また、相思相愛で困難を乗り越えて結ばれた者同士が、その後においても固く愛を育てていくとも限りません。むしろ
「遂わばなんの恋の味」(相思相愛で結ばれても結ばれてしまえば、それ程でもない)
と、ならないとも限りません。
■ 既婚の夫婦の浮気
既婚の夫婦の一方が違う異性に恋をするという場合、既婚の夫婦のどちらであっても、夫または妻は、違う異性を許せないと思うものです。
例えば、ある夫婦の夫が違う異性に恋心を抱いて、付き合いだすというような場合です。夫の方が先に相手に言い寄っているのですから、元と言えば夫の方が先に責められるべきです。
ところが、この夫の妻は夫を責めはしますがホンの少しです。夫より相手の異性(この場合は女性)に矛先は向かいます。何故でしょうか。
①夫の浮気を妻が認めれば、それは妻に魅力がなくなったという査証になる。
②夫を責めると夫は妻から離れて行く可能性がある。
が考えられます。
妻は、相手の異性(女性)を夫から引き離すしかないと考えに終着点を見つけます。それは、どのような手段であろうともです。相手の出方次第では、殺意が湧くこともあるでしょう。殺意は衝動的というより最終手段と肚を決めることになるのでしょう。
人の愛憎は、おぞましいものですね。
何という女性作家か失念しましたが、
『夫が他の人に恋に深くなったら、わたしならその女性の魅力に負けたと思い、夫を差し上げるわ』
と言ったことを今でも、素晴らしいと思ってしまう。