当たるも八卦当たらぬも八卦(手相)
「働けど働けど猶わが生活(暮らし)楽にならざりぢっと手を見る」(石川啄木)
この歌を書いたときの啄木の気持ちはどうだったのであろうか。このころの啄木は放蕩三昧で、このような歌が作れるところがある意味において凄い。啄木は無論自らが望んで貧しかったとも言えるが、一般社会の世相もよく見て詠んだのであろう。
確かに人生の一時に於いて、こういう歌の様な時期は一度ならずともあります。では啄木は、なぜ手を見たのでしょうか。天を仰いでも良かったし、仕事場に臨んで机を見つめても良かったでしょうに。実際にそれもあったでしょうが、手を見るという事の具体性は、多くの人の取り得る共通の仕草である事に共感を得られると考えたのかも知れません。
■ 手相
啄木は、手の甲、あるいは手のひらの何れをじっと見たのか?
節くれだった手の甲を見て、ため息をつき手の平に涙を浮かべたのかもしれない。我が身の不運、出藍の誉れを成し得ず悶々とする日々に、若さを浪費している焦りからあったのだろうか?
と、まあ非常に浅はかな思考は中断して、啄木が見たかもしれない啄木の手の平。本日はその手相の話。
■ 手のひら
わたしは、啄木は手のひらを一番長く見つめたと思っています。そして、こうも思ったことでしょう。
『何ぞ、運勢の悪い星の元に生まれてきたのではあるまいか?』
とか
『良い手相の筋は出ていまいか。人生が好転するような』
■ 啄木でなくても
啄木の歌でなくても、わたしも一向に人生が好転しない時などには、手をじっと見ることがあります。それは恐らくは啄木と同じで、閉塞感のある生活から何とか抜け出したいという焦りを感じる時なのです。
その想いの多くは、
「お金があったらな」
という思いです。人生はお金がすべてではないけれども、お金があるといいなと思うことは少なくありません。少なくないというより殆どです。家族や親兄弟、そして自分に優しく出来るのもお金があれば可能である事が多いですから。
■ わたしの手相
わたしの手相は、その筋の人のウェブサイトで確認すれば、実に素晴らしい。
一つや二つの吉相ではなく、どれもこれも吉相だらけなのです。
しかし、そのいずれにおいても少しも実現していません。歳を取る毎に吉相は増えて来てはいるのですが、吉相が示すほどのお金は少しも増えて来てはいません。まあ、当てにはしてはいませんが、良いのならご利益にあずかれたらいいなとは思います。逆に悪かったら、見ることもないでしょう。
要するに、
というところでしょうか。即ち占いの結果は当たることもあれば、外れることもある。必ずしも的中するとはかぎらないのが占いでしょう。あまり期待しなさんなということですね。