わたしの親しい友人の一人は、人の死など特別な話になると普通の人なら言わないような事をいいます。何というべきか、その死生観が独特なのです。
例えば、不慮の事故や病気で無念にも若くしてこの世を去らなければならなかった人が、わたしの周りや知人の周りに出来たとしましょう。その話をすると、その友人はこんな風にいうのです。
『それは、仏様のお導きでそうなったのであって、浮世の苦難の修行から解放してくださったからで、そういう早くに世をさった人は仏様の近くに召される。僕たちの様な、今をまだ生きながらえている人間は、まだ修行が足りていない。もっと浮世で修行せよとの仏様の言いつけなんだ』
と。
わたしは、その独特の死生観を否定したことはありません。仏教の一つの死生観かも知れないと思うから。しかし同時に、うわべでは相槌は打っても、心では同意いたことはありませんでした。むしろそういう事をいう友人を何度も訝しんだり考え方を疑ったりしていました。
しかしながら何故、友人がそのような事を言うのかの理由が程なく知ることとなった時から、同意はしないけれども理解は出来るようになりました。
■ 交通事故死
その友人と、そういう話ではなく何か別の話の時に、ふと交通事故の話へと転ぶことがありました。その時、友人はこう切り出しました。
『僕も交通事故で死ぬところだった』
と言い、続けて
『高校を卒業したとき、卒業ドライブに出かけた。ところが対向車線にこちらの車がはみ出しトラックに正面衝突して、同乗4人のうち3人が死に僕だけが助かった』
『へえ、君は怪我がなかったのかい?』
とわたしは、驚いて言葉を繋ぐように聞きました。
『それが不思議に何もなかった。車は大破していたけれど。助手席の後ろの席で、震えていたところを、救出されて病院に搬送された。後で、同乗の3人は死んだと聞かされた』
『そう、、、』
わたしは、そのこうであろうかと光景を頭に描きながら、言葉が続きませんでした。何でも、新聞に大きく報道されたということです。
『警察の人は、君に死んだ3人の分まで長生きしてやらにゃあいかんぞ、とかいった?』
『その通りに言われたよ』
■ 友人の死生観
友人の、冒頭で書いたような死生観とでもいう独特の考え方は、この事故で友人を一挙に3人も失ったことに起因しているのでしょう。このような考え方を持つことで、今なお生きながらえている自身のことに対する友人らへの申し訳なささと、死んだ友が仏の近くに召されたとの慰めの考えることで顛末を昇華したのだと言う他はありません。
どんな人にも、その独特の考え方を持つには、そこに至るにはそれなりの理由(わけ)があり、それを頭ごなしに否定するのではなく、そこに至った出来事の経緯を知るなら同情も生まれる。
まずは、事実を知り、そして同情する。あくまで先に事実を知ることが大切であろうかと思います。