聖護院 京極のブログ

天と地の間に新しいことなし(ことわざ)・・・人間の行動は今も昔も変わってはいない

田舎の暮らし

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画像出典:ミンカラ

 

田舎出身のわたしは、田舎暮らしの良さも知っていますが、田舎特有の我慢出来ないことがある事も知っています。田舎は、街中に比べればそれほどの密集した住まいがある訳ではないし、軒を競い甍を争うような風にも見えず、遠目に見るとどこか懐かしさのある田園風景であるかも知れません。

 

そう思えるのは、田舎へのビジター(一時的な外来者)であるか、田舎暮らしが何世代にも渡るような長期にその土地の生まれも育ちも垢が染みついた暮らしの人ではないからであろうと思います。

 

そういう人には好奇心をもって田舎の人間も当たり障りのない、一見穏やかで親切そうに思える対応をするものです。いわば、

 

『あの人たちは、所詮よそから来た人』

であり、

『いつかまた、尻尾を巻いて出て行くに決まっている』

と踏んでいるからです。

 

■ 田舎の暮らし

田舎暮らしは、村人が思うレベルにある時には非常に快適であろうかと思いますが、長くなるほど陰湿な人間関係の暮らしを感じるようになると思います。

 

田舎に住まうとなると、田舎特有の行事や決め事、拠出金などの付き合いがあります。それを田舎に越してきた人は当初は免れるかも知れませんが、村人として今後も根付いて生きて行くにはそれらを受け入れなくてはなりません。

 

それが免れている間は、村人は新しく来た人を単に一時的な気まぐれで来た人扱いをしていると考えて差し支えありません。冒頭でも書いた通り「ビジター(一時的な外来者)」に過ぎないのです。

 

都会の生活のように、「隣の人は何をする人ぞ」というような、孤独ではあるが、自由気ままな生活は、様々な村の行事の参加で自由になりません。放って置くと次第に居づらくなります。あらぬ噂も起こります。

 

『今度来た人は、道であっても挨拶もしない』

『村の公用を金で済まそうとする』

などという噂が、広がります。村の公用とは、村としての財産山や神社仏閣の保全さ行やお金の拠出です。村道の維持管理、修復。村の役員の持ち回り。また川に覆いかぶさる夏草や木を伐採して水が田に入る間に少しでも陽が差すようんする作業です。それは、わたしの家は、田を持っていないからとは言えない。

その苦情に、さも味方のように相談に乗ってくれた村の人も告げ口をするというようなこともあります。

 

■ 良いこと

田舎に住んで良いことは、田舎に土地を持ち、その土地から収穫して生活費を稼ぎだすのでなければ悪くはないでしょう。例えばリモートでの仕事。

 

さらには澄んだ空気や穏やかな緑の里山、四季が感じられる日々の移り変わり。

 

■ ふるさとの家

わたしの家のように江戸時代初期から、住み着いてきたいわば土着の人間では、同じような歴史のある家々との、栄枯盛衰による精神的なせめぎ合いを繰り広げてきました。わたしの家は、少しずつ没落して来て、父の時代が一番悲惨であったと思います。

 

まあ、今は村そのものが存続の危機にあり、これまで述べてきたような村独特のしきたりや行事が廃れつつあります。

 

■ 田舎に暮らす理由

若い人が田舎に来て、自然の中でのびのびと子育てをしたい。そのつもりで暮らすなら、やはり、せめて高校が存在する街でなければ、子の教育のために係る労力と費用は街中よりかかると思います。まして、大学進学となれば、狙う大学がランク上位なら、塾にも通う必要もあります。

 

結局、田舎に越して生活するのも村人が思うような「ビジター」で終わる可能性は非常にたかいということになるでしょう。