聖護院 京極のブログ

天と地の間に新しいことなし(ことわざ)・・・人間の行動は今も昔も変わってはいない

よその家の料理

 

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画像出典:出先失念しました


妻の料理は、決して不味いということはありません。しかし、又同時に特別に旨いとということも殆どに渡りありません。では、よその家の料理はどうなのだろうかと思う。しかし、わたしは小さな歳の頃から、母の料理以外を殆ど食べたことが無いのです。

 

■ 機会

よその家の食べ物を食べる機会がなかった訳ではありません。母は話好きでその会話の中にどんな展開からなったのか、食べ物を御裾分けして貰って帰ってくることの頻度は高かった。

 

また、人に相伴(しょうばん)となって招かれたり、親戚の家に遊びに行ったりして、その機会はいくらでもあったのです。

 

しかし、わたしやわたしの兄弟はそのよその家の料理を殆ど箸を付けませんでした。付けなかったというより、付けられなかったと言った方が適切です。お腹が空いている時は、むやみとコメご飯ばかりを頬張る訳です。

 

勧められて、切れ端のような手料理の端くれをご飯にくるんで、殆ど飲み込むようにして胃に落とし込んだものです。その時間が苦痛でした。

 

■ 何故よその家の食べ物は食べないのか

我が家に豊富に食べ物が溢れていた訳ではない。のにどんなに空腹でもそれを口に出来なかったその理由は今もって明確ではありません。ただ、何か思いもしない程の不味いものかも知れないし、未知の味かも知れない、あるいはその料理に何か得体の知れないものが含まれている気がしてならないのです。

 

また、その頂き物の料理が誰によって作られたのか、どのようにどのような場所で作られたかも知れないことが、食欲を削いでしまうのです。たとえ、よく知っている近所の女性の作ったものであっても、どうしても食欲が湧かないのでした。

 

それを、母は

『どうして頂かないの。美味しいよ』

と、箸を付けながらわたし達に怪訝な顔をします。

『うん。いいや』

と言ってしまうのです。そして、さも美味しそうに食べる母を、何か気の毒な人のように見つめ返すのでした。実際に美味しいのかも知れないと思う、食べず嫌いだけではないのかとも思うのですが、何故か食べられないのです。

 

そもそも、料理の材料が明確にわかるものでなければどうにもなりません。例えば焼き魚、野菜の加工がなされていないサラダ、トマトなどでなければ何か怖い。

 

 ■ そして今も

そして、今もその傾向は改まることがありません。妻の作る料理が多少の不味さがあったとしても、よその家の料理がどのように美味しそうでも、やっぱり妻の料理の方を選んでしまうのです。

 

だからといって、料理店の料理やコンビニの弁当はごく風つに食べることが出来るのです、おかしなことに。

 

母と同じように妻はそういうわたしを、訝しがる。

 

 

 

 

親のことを有難いと思える歳

 

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画像出典:kotowaza.ziten.co.jp

 


「親の恩は子を持って知る」とは、親の有難さは子を持ってわかるという事であります。

 

しかし、実際には子育ての最中のような歳では心底の有難さは感じないものです。確かに時々において、親ってありがたいなと思うことが無いではないけれども、それはあくまで一時の助けのあった時のことの感謝で、喉元を過ぎれば持続することではありません。

 

■ 親の有難さを知る歳

想像するに、親の有難さを心底分かるようになるのは、実は親が死に、今度は自分が死にゆく立場に立った時であろうかと思います。

 

子は育ち、親を他人と同様に殆ど必要としないでも、生活が成り立っている。今は余生を生きるのみ、その頃にそれは、親の有難さがしみじみと感じ出す時でありましょう。

 

■ おちおち

自分たちが子の重荷になるかも知れないと思う頃になると、初めて親の有難さが後悔に似た懺悔の気持ちも湧いてくる。従って子から感謝をされることを期待するなら、体が不自由であったり、不如意である時に至るまでにおちおちと生きていられない、ということでしょう。

 

■ 出来ること

親の有難さなどは強いて感じなくてもいいです。自分も親と同じ道を歩むでしょうから。ただ、有難さを感じる時になって、親に何かをしてやれなかったと悔やむことが少ない方が、良いとは思う。ちょくちょくと親に善行を積むことは悪いことではない。

 

まあ、子は親を踏み台にして生きて行くのが生き物の本来の姿ですので、恩を感じたり、有難いとは必ずしも感じる必要ではないかも知れません。親が子を思う気持ちは、人間以外の動物でも同じに見えます。が、子が感謝することはありません。親が子を育てるのは、当然のことであるからです。

 

ただし、子も自身が親となって子育てをする時のも同じ立場になっても、同じことがが言えるのです。まあ、いろいろなところで感謝の気持ちが起きるのは人間としてごく普通の感情なので、それはそれで良いことではりますが、だからといって、親が子に恩を求められることではありません。

 

それぞれにある住まいの匂い

 

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画像出典:trance biz


どの家にも程度の差こそ有れ、その家の独特の匂いはあるものです。それが、一番気付けていないのは、住まっている人でしょうか。そして、一番感じるのは、初めて来訪した人ではないでしょうか。

 

■ 古い家

古い家には、生活様式から出るその家に言わばこびりついた匂いが長年にわたり蓄積しており、一時しのぎの噴霧器式の匂い消しでは、直ぐに効果が薄れてしまいます。訪問して長居していると、それが盛り返して来るのが解ります。

 

それらは、総じて不快な匂いであることが殆どと言っていい。ただ、そこに住まっている人には、どうということもない生活臭に過ぎないのでしょう。自身の鼻にも相手の鼻にも無頓着なものです。むしろ、長く住まいを離れた後に、帰ってみると、その匂いは懐かしく思えたりするかもしれない。

 

■ 新しい家

一方、真新しい家には、建てられた当初の建築工事による匂いが残っています。クロスの貼り糊、畳おもてもイグサ、檜の柱の香りなどの持つ独特の匂いで、それらは生活の匂いではありませんが、好悪はあるようです。

 

わたしなどは、真新しい畳のイグサの香りや木の柱の香りなどには、自然が感じられて、むしろ好ましく感じますが、最近の若い人、例えば二十代半ばの我が子ではそれを異臭ととらえることの方が多い。畳の部屋や木のむき出しの部屋に殆ど住まないからでしょう。

 

現在の日本人の生活の中にも、畳敷きの和室などは、新築物件では一間のみということも少なくありません。あるいは、和室が一間もないことも珍しくありません。

 

■ ペットのいる家

ペットを飼っている家は、その動物の匂いを消すことはまず無理です。動き回る生き物ですから、仕方がありませんが、これもまた飼っている人は気づいているのかいないのかは分からないけれども、無頓着です。

 

わたしの視力はメガネなしでは生活できないレベルにありますが、聴力、嗅覚は人並みです。嗅覚については敏感な部類でしょうか。これまで述べて来たようなニオイには、敏感です。

 

勿論、誰に迷惑をかける訳でもなく、来訪者も頻繁でないのなら別に問題が生じる訳ではありませんので、いいのですが。そういう指摘は出来ます。

 

■ 芳香剤

妻も匂いには敏感です。

それで、家のあらゆる場所に芳香剤を置いております。わたしは、勿論、物の腐った匂いやペットなどの独特の匂いにも閉口しますが、妻の芳香剤にも苦慮しています。テレビのコマーシャルなどでよく見かける、洗濯物に薫る花の匂いらしいものも、かすかにするのなら許容できるのですが、むせ返るような沸き立つ香りとなると、むしろ不快としか言えません。

 

妻は、しかし自身が配置するだけのことはあって、どのような強烈な花の香であっても、無反応です。そこがわたしには理解しがたい。それなのに、生活臭には敏感であるのです。まあ、個人の感覚なのでどうにもならないところは承知しては居るのですが、わたしは無臭が何より好き。

侏儒の言葉(しゅじゅのことば)

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画像出典:岩波文庫

 

芥川龍之介の「侏儒の言葉(しゅじゅのことば)」といういわばエッセイのような集があります。それらの中で、わたしの特に印象に残っているのは「瑣事(さじ)」の部分です。瑣事は些事(さじ)でもよく、意味合いは同じです。即ち「些細なこと。取るに足りない事柄」という意味あいです。「瑣事」の原文は下部の色付き細字の部分です。

 

 

瑣事

 人生を幸福にする為には、日常の瑣事さじを愛さなければならぬ。雲の光り、竹のそよぎ、群雀むらすずめの声、行人の顔、――あらゆる日常の瑣事の中に無上の甘露味を感じなければならぬ。
 人生を幸福にする為には?――しかし瑣事を愛するものは瑣事の為に苦しまなければならぬ。庭前の古池に飛びこんだ蛙は百年の愁を破ったであろう。が、古池を飛び出した蛙は百年の愁を与えたかも知れない。いや、芭蕉の一生は享楽の一生であると共に、誰の目にも受苦の一生である。我我も微妙に楽しむ為には、やはり又微妙に苦しまなければならぬ。
 人生を幸福にする為には、日常の瑣事さじに苦しまなければならぬ。雲の光り、竹のそよぎ、群雀むらすずめの声、行人の顔、――あらゆる日常の瑣事の中に堕地獄の苦痛を感じなければならぬ。

 

人生を送る日々において、小さな他人には取るに足りないような個人的な喜びを得ることが幸せを感じる瞬間でしょう。今日は、茶柱が立ったと言って、何か良いことがあるかも知れないと喜ぶこともあれば、片思いの人の顔を見ることが出来たと胸がときめくかも知れない。

 

それらは、ささやかではありますが、生きていく上での楽しみでもあります。

 

■ しかし

しかし、同時にその楽しみが反転するような時には、それは喜びであると同様にささやかではありますが、落胆に変わる時でもあります。喜びと苦しみは大小はあれど、その本質は同じであり両者は「禍福はあざなえる縄の如し」と言って絡み合っていると言っていいでしょう。

 

人が幸せに生きるためには、

これらの瑣事を受け入れて良しとしなければならないが、同時にその瑣事にも苦しまなければならない。

 

幸せとは、そのように細やかな喜怒哀楽の裡に日々を送ることであります。しかし、同時に、人はまた、どこかにその幸せな日々に飽き足らなさを持っているものです。幸せはそこに浸かっている時には、殆ど何も感じないけれども、失ってしまうとその大切さと心地良さが解るということでしょうか。良きにつけ悪しきにつけ。

 

平凡の裡に生きることこそが幸せでありますが、その平凡さに耐えきれないという、人間の脳裏をフッと横切る時、否定する時に幸せは霧散してしまうかも知れません。もっと違う生き方がある筈だと思うこと、そして変わることもまた、人生ではありますが。

 

恐らく両方は成り立たない。

卵うどん

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画像出典:味の素

 

うどんの玉を買って来て、自宅でうどんを料理するとするなら、具は何にしますか?

 

市販のうどん用の甘い揚げパック、スーパーの天ぷら、とろろ昆布あるいは生卵を落とすという、非常に安価で済む具を上げることが出来ます。専らこれが我が家では主流です、溶きたまごはせず、ママに落とすだけ。

 

■ 冷えている

卵は、冷蔵庫に保存していますので当然によく冷えています。それを煮えたぎるうどんの鍋に中途から落とすのですが、卵自体が冷え切っておりますので、そう言った中に落としても、なかなか固まりません。

 

強い火加減ですと、白味の沸騰で石鹸の泡か汚れた川の淀みに浮かぶ芥のようなものが出来てしまいます。要するに灰汁(あく)です。それを出ないような火力で調整するには、せっかちなわたしは待てない。

 

そこで、白味が固まり始めた頃に

『良し出来た』

といって、鍋からどんぶり茶碗に移す。しかし、それはようやく白味が固まり始めた頃か、白味だけが固まった程度で、卵の中心の黄身はそうでもない。

 

黄身は、固まると表面が少しだが、白みを帯びていて来る。それを更にどれ程に煮て固めるのかは個人の好き好きではある。が、黄身の中心部分までは固まらずに、ややとろみを残しているというのが、わたしの好み。

 

■ 急ぐと

ところが、出来上がるのを待てなくて火を落として、どんぶり茶碗に移してしまうと、黄身のほんの外側部分のみが固まってはいるが、その大半以上は全くと言っていいほど固まってはいないということが、わたしの場合殆どです。

 

いい加減、待つという辛抱が出来ないものであろうかと、わたしがわたし自身を怪訝に思うほどであります。これまでの失敗が活かされていない、と一人嘆くばかり。

 

あ、そうそう、昼はわたしの分はわたしがつくるのです。

 

■ 食べる

しかし、兎も角も出来上がったものをフウフウ言いながら食べる。うどんと、固まった白みを黄身から少しづつ剝ぎ取っていく。その時、黄身が自分の思う固さに無い時は、まるで水の入った風船が萎んだ時のようにブヨブヨとして、うどん出汁の中に浮かんでいます。

 

それをさてどのように食べたらよいだろうか?

 

思案のしどころです。ブヨブヨしたまま、口に一気に啜り込めば、その熱さで口の中が火傷を負いかねない。しかし、潰してしまうとうどん出汁の中に散逸してしまう。勿論、レンゲで掬い取れば良いのだが、うどんを食べる時にそれを使う習慣が我が家にはない。

 

かくして、慎重にどんぶり茶碗に口を付け、出汁の温度を伺い、プカプカと浮かんでいる黄身を口の中に吸い込むか、もう、出汁が熱々のときには、潰して出汁が黄身だらけに変色して、全部は吸えないのであきらめるかしかない。

 

などと言う、いかにも馬鹿げて下らん格闘を週に一度はしています。

麺パラダイス

 

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今日はではなく、今日もですが、、、

画像出典:クックパッド


自宅で仕事となりますと、昼のメニューはインスタントラーメンか、昨夜の残り物のおかずとご飯、あるいはうどんでしょうか。

 

■ 麺(めん)パラ

勿論、出前を取っても良いでしょうが、高くつきます。ということで、どうしてもうどんや蕎麦、あるいはインスタントラーメンとなります。これを、我が家では「麺(めん)パラ」と半ば自虐的に呼んでいます。

 

麺パラとは「麺類パラダイス=めん天国」という程の意味合いです。他の家庭はどのような昼食であろうかと、ため息交じりに考えたりする。

 

■ スーパーのアウトレット

麺パラですので、その在庫は豊富であります。有名メーカーからスーパーの見切り品売り場などにあるものまで、多種多様であります。

 

見切り品と言えば、我が家の行きつけのスーパーでは、この見切り品売り場を、いかにも値打ちありげに「食品アウトレット」と称して凡そ二メートル四方のワゴンの上に展開しております。その上に山のような見切り品が雑然と置かれています。

 

見た人が、掘り返して値踏みするものだから、もう乱雑そのものとなっております。

 

■ 中には

聞いたこともないようなどこかのご当地ラーメンや試作して殆ど売れなかったらしいお菓子などが並べてあるのを、貧しい我が家は決して見過ごしはしません。ケチを付けながら、あれこれと吟味して結局は大抵の場合、一つは買い物かごに入れる。それも、癪に障るが、貧乏カネなしと言うしね。

 

確かに、大半が売れない理由が納得できる。何かが足りないと思うのだが。それが何なのかを断言できるほどの舌を持っていないから。

 

しかし、たまに

『お、これは旨い』

と思うものに当たることもある。それが、わたしの舌にあっただけかも知れないけれども。

 

『もっと買っておけばよかったなあ』

と言っても、既に遅い。買ったその日に消費すれば、それに気づいて車を飛ばしたかも知れないが、外れ物かも知れないと思うから、インスタントラーメンのストックが著しく一時的に減少した時の緊急用くらいに食べるので、その時にはスーパーのセールはとっくに終了しているということになる。

 

 

クーラーから黒い虫が飛び出た

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画像出典:@DIME

 

昨年の夏のことでした。7月に入って数日でクーラーを入れることとなりました。それまで、殆ど死ぬ思いでスイッチを入れなかったのは、一つには家計のためであり、次にはクーラーの涼しいというより、冷たいと言った方がよい風をわたしが嫌うからでありました。

 

しかし、うだる暑さに我が家も限界かと思われ、クーラーを入れることとしました。特に妻は、薄グレー色の半袖シャツが、濃いグレーに変色する程の汗をかいており、早晩熱中症で倒れる可能性もありましたし、気の毒でもあり決断しました。

 

■ スイッチON

開いていた窓を閉め、スイッチを入れますと冷風が下りてきて、一息つけました。しばらく、この冷風を吹き出す機械の話になりました。

『このクーラーも長いね。最近は最強にしても涼しくない』

と妻がこぼし、娘が家計のことなど何のお構いもなしに、かつ、わたしの収入にもまるで忖度せずに

『これは、買い替えなきゃいかんでしょう』

などと言いだすのを、

 

『あんさん、何言うてはりまんねん。新しく買ったらどんだけかかるか知ってるの?』

とわたしが反撥します。今度はわたしが言う番です。

『あんたも、会社勤めをして数年になるんだから、買ってくれてもいいのじゃないかい?お父さんが、特上の製品を選んだる』

と反撃しますと、

『うーん。このクーラー、まだまだ使えると思う。辛抱しようよ』

と手の平返し。呆れてその言葉の主の顔を見ますと、プイと横を向く。

 

■ 突然に何か

そういう話をしていると、クーラの風に乗って黒い虫のようなものが飛来しました。とんでいった先の娘は、悲鳴を上げました。

『わー。黒い虫が飛んで来た。何々?』

思わず体をすくめて立ち上がり、椅子から慌てて離れます。その様子にわたし達も驚いて、その黒いものの正体を見極めようとしました。

 

体全体が真っ黒の、大きさにして凡そ、柿の種ほど。相当な大きさです。飛び回ってわたし達にを刺すことがあるかも知れない。それに刺されでもしたら、唯では済まないぞとわたし。恐怖が頂点に達している娘は、早く退治しろとわたしに五月蠅い。

 

飛んで来た黒い虫らしいものは、しかし、テーブルの端で風に体を揺らしてはいるものの、どこかに飛び立とうとする様子もうかがえません。それに安心して、妻が覗き込む。

『危ない!』

娘の金切り声で、妻は笑い出しました。

『よく見て見たら、埃よ。クーラーから出て来た。埃のかたまり』

成る程よく見ればそのようである。

 

■ 本年はクーラーの掃除を

本年は、先週に掃除を行いました。先に書いた大きな黒い虫の出どころは、冷気の吹き出し口の回転する送風ローラーかららしい。埃の付着も限度を超えて、千切れて飛んで来たもののようです。首振り用の立てに仕切りの間から見ると恐ろしいほどの埃の量です。

 

それを、マスクにメガネで約一時間半を

『うんうん』とか『厭になる』

など、有りっ丈の愚痴を並べて取り除きました。体中黒い埃だらけで、床にも黒く積もっています。とりあえず完了しましたが。まだ、試運転を行っていません。試運転では、恐らく取り損ねている埃や、取れかかっているそれが、かなりの量で飛び出してくると思われます。

 

今更ながらに、試運転が気が重い。しかし、クーラーの使用時期も近づいてきています。忍従にも限度がある近頃の暑さに、時間は残されていない。

 

強炭酸水が晩酌のこの頃

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画像出典:tokyohedline.com

 

こうも暑い日が続くと、夕食時には冷えたビールを飲みたくなるというのが人情でしょう。そりゃあわたしも、ほぼ毎日でも飲みたいのですが、まず体によろしくないのと、次には家計の事情を斟酌しますと精々、週に二度三度でしょうか。

 

■ よく考えてみると

確かに、食卓が外食となっている場合、焼き肉屋、焼き鳥の時には、ビールが特に良くあいます。そんな夢のような時は年に数度もな望めません。自宅の食卓であるなら、焼肉が懐が許すなら次々に運ばれてくるというような外食とは違ってきます。

 

従って、自宅の主に夕食ではビールでなくとも、喉越しが「シュワー」として通り過ぎてくれさえすれば、何でもいいと思ってしまう。だからといって、甘い炭酸飲料も辛い。価格が安くてアルコールがなくて、喉越しがすっきりしているものであれば、何でもいいわけです、わたしは。

 

■ 炭酸飲料

そこで、無味無臭の「強炭酸」がその候補に挙がり、最近はビールより断然こちらの消費が増えてきました。しかも、人気があるのか、いろいろなメーカーが競って「強炭酸水」を発売しています。

 

無味無臭なので、どんな料理にも合う訳です。まあ、逆にどんな料理にも物足りないともいえるのですが。

兎も角、喉越しが良ければ良いと思うわたしは、ほぼ毎日飲んど居ります。量は、コップに二杯程度あれば良く、財布にあって優良亭主なので、妻も快く出してくれたりします。

 

■ サーバー

炭酸を自宅で調合して飲める、炭酸サーバーなるものも出ております。それも一度は導入を検討しましたが、我が家の消費量から考えて、特にメリットがありそうにもなく、残念しました。もっと、大家族で若い人が多ければいいでしょうね。

 

今日も暑くなりそうです。

蒸し蒸しする一時の清涼を、炭酸水に求めるささやかな晩酌の夕方が待ち遠しい。

ミニトマトの収穫期(一期分)

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第一回収穫期

 

ミニトマトを植えてから約二か月になります。Vの字型の枝が甲乙つけ難く成長し、それぞれに2-3段の実の房があり、また、それぞれに4-5個のミニトマトが付いています。

 

最初に、実のついた房の9個中の4つが赤く色づき収穫期となりました。他の段の房にも最低でも5個以上の実が付いております。

 

    

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左端はネットです

 

しかし、強風でプランターが倒れて実が捥(も)げたり、枝の矯正中に首から落ちたりして、少なくとも3個以上が、青い実のまま消失しましたが、残りは健在です。

 

■ カラス

カラスは、人と同様にトマトの色づきを観察しており、人に隙があれば、失敬をする算段のようで、油断も隙もあったものではません。トマトの周りに、高さ25㎝の間隔で横に紐を張ってもカラスから守れるようですが、昨日に10㎝目のネットを買い覆いました。100円均一ショップで、100円でした。

 

サイズは幅80㎝横180㎝の縦長。トマトは精々人の高さくらいで収まりそうなので、これで充分と考えられます。

 

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■ 人

子供も目の前にあるトマトには、つい手が出てしまうもののようで、被害にあう人もありますが、このネットを掛けて置けば心理的に手は出しづらくなり、効果が見込めます。

我谷は緑なり

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画像出典:丹波

「我谷は緑なりき」という題名の映画を、相当な以前に見たことがあります。名作ばかり三本千円で金曜日と土曜日に毎週上映され、ほぼ欠かさず見に行っておりました。この映画もそのうちに一本で、殆どの内容は忘れました。

 

ただ、白黒映画で「緑なりき」という題名から自らが住んでいた谷への回想の形だった気がします。アメリカの炭鉱を中心として物語の展開。明るくて大所帯の炭鉱夫の家族が落盤などで次々と死者を出して、一家が離散していくような筋であったかと思います。

 

その映画をわたしが覚えているのは、わたしの故郷である小さな山間への郷愁が、この映画の題名に合致しているからでありました。映画のあらすじとは殆ど似て非なるものではあります。しかし、その平和な暮らしが次第に崩れて、一家が次第に離散するという大筋は、わたしの身の上の展開と大きくは変わりません。

 

わたしの暮らしていた時代の故郷は、今は失われてしまった活気にあふれた若い活力のある時代でした。

 

■ 今も

そして、今も故郷は緑に溢れていることに何ら変わりはありません。ただ、わたしが子供の頃の所謂「里山(さとやま)」とは違っています。今は里山は滅びました。

 

里山は、自然がよく手入れされ、田は耕され、畑は作物が実る豊かな土地のことです。刈り込まれた、土手や山の斜面、その一角に立つ農家の屋根から、一筋の煙が立ち上り、柿の実が色ずく、それは、まるで箱庭のような調和のとれた景色でした。

 

それが今は荒れ放題になったままに放置され、鬱蒼と雑草が生い茂っています。満面の水をたたえて、早苗が植わる筈の田が背高い草の生い茂る景色と変わっています。

 

■ 年々

年々、高齢化と少子化でわが故郷は「限界集落」となることも遠くはないでしょう。わたしの村の十数人の同級生も居残ったのはたった一人だけです。

 

わたしは、秋の収穫された後の田の中で、村の同級生ととっぷりと日が暮れるまで、ソフトボールに興じていて、帰ると父にどやされたことを懐かしく思い出す。それはまるで、映画のハイライトを見るように、同級生のそれぞれのはしゃぐ顔と鮮やかな自然と共に。

 

■ 歴史が繰り返すなら

もし、遠い将来に、再び農村に活気が戻るような歴史の繰り返しがあるなら、どんなにか嬉しい。それを願って止まない。何かが助けになるのなら、助けもしたい。