聖護院 京極のブログ

天と地の間に新しいことなし(ことわざ)・・・人間の行動は今も昔も変わってはいない

五山の送り火とお盆

画像出典:ワールドコーヒー

 

昨日2022年8月16日は、京都では五山の送り火が行われました。8時点火の30分ほど前には、急な激しい雷雨がありましたが、点火の時刻前には止み、予定通りに行われました。

 

五山の送り火は、相当な十数キロ先からもはっきり確認できる程の大きなもので、山の中腹に薪を汲んで一斉に着火します。

 

五山の送り火の詳細については他のネットで詳しいので深く触れません。

 

京都市の中心地よりやや北側にある京都御所を中心に、北側方向に180度の散在する五山に6つの送り火が焚かれます。それは今では風物詩で、マンションの屋上などでは住民に整理券を出して特別に屋上に上がらせて鑑賞させたり、観光客を当て込んだ商売に取り込まれて居たりします。

 

五山の送り火は盆祭りの最終日を告げる行事で、13日に帰って来た死者の霊を浄土へと送る灯です。

死者の霊は8月13日には、川から死者の霊はそれぞれの家へと戻るとされていますね。川は三途の川につながっているとされるのでしょうか。

 

■ お盆

わたしが少年の頃には、盆の期間は、川遊びは勿論、魚を釣ることもわたし達の村では禁じられていました。死者の霊が戻って来られる水を汚すなと言うことであったのでしょう。それに反して川遊びをすると、死者の霊が水中にその者を引き込むと脅されたりもしました。

 

それでわたし達は、恐ろしくて川に近づくこともありませんでした。

 

川からそれぞれに家に帰って来る死者の霊が、帰る家を間違わないように、夕方前には提灯を軒先に吊るしました。何故か夕方に返って来るようです。

 

この辺は何とも現世的な考えだなと今でも思います。帰って来た死者の霊は、お盆と言う期間に今を生きる現世の人と邂逅して、喜び、安らぎ16日の夜には、精霊流しの案内の灯と共にまた浄土に戻って行くのだそうです。

何だか嬉しくもあり、薄気味悪くもありですが、人がいま生きているのは先祖の霊によって守られているからだと、考えてもいいかも知れませんね。

 

 

給料袋があった頃

画像出典:アゴ

お札(さつ)は、常に15枚しか月初めに引き出しません。それでは生活は出来ないではないか?と思われるかも知れない。

勿論、その15万円でひと月が生活費が賄えているわけではありません。

即ち、その他は銀行引き落としで済ませているのです。これは大変便利です。

 

■ お金の出入り

通帳に入って来たお金も、そこから引き落とされるお金も、またATMから引き出したそれも何ら違いはありません。

 

しかしながら、帳面面(づら)だけで、その実物をついぞ見ないままに、入って来て出て行くのは、何ともしっくりきません。と言うか、お金の重みやお札の厚み、匂いなどが感じられることが出来ないことに不満があるのです。

「汝ら、いづくより来たりて、いづこへか去らん」

てな風に感情は複雑ですが、帳面面(づら)決済を便利に負けて、それで済ましております

 

■ 給料袋での支給

若い頃は、給料袋に給料は入れて頂くものと決まっておりました。お札だけでなく端数の小銭も入っているので、想定以上の重さになったのを、喜んだり、開けて見て残念がったりしたものです。

早い話が重くなったのはその小銭のせいで、別に給料が増えた訳ではありませんでした。

 

その頃には、貰った給料を全部持ち歩いている友人も少なくありませんでした。そして給料日には飲みに誘われたりすることもありました。ある友人の行きつけは個人の居酒屋で、酒のあての外に、定食ランチの様な食事も作ってくれたりして、独り者の友人には非常にありがたい存在であったようです。

 

友人は、給料日にその行きつけの店に入ると

『おっちゃん、前月付けをはらうから』

といい、おっちゃんも

『おー、ありがとね。今月はこれだけだよ』

と紙に内訳を書いた請求書をすかさず見せます。用意してあったと見えました。そして、友人は

『ありがとな。ビール二つ頂戴』

など言いながら、後ろポケットに二つ折りにした全支給額入りの給料袋から、ヨレヨレのお札を渡したものです。「ありがとな」は付けで飲ませて貰って来たことのお礼の言葉です。

その頃のお札は、今と違って千円札でも一万円札でも新札という訳ではなく、使い回して古びたものが殆どでした。蛇足ながら今は、感染症予防から、お札がヨレヨレは殆ど無くなりましたね。

 

友人の飲食の付け代金を受け取りながら、それが無事に回収できたおっちゃんの顔は大いにほころんで、突き出しなどをサービスして呉れたりしたものです。

 

このようにして、友人の一か月は回転しているのだなと、お金の出入りで感じられたものです。わたしも、一人の時はこの友人とさして変わりはありませんでした。

 

■ 天引き預金はしていた

わたしも天引き預金をしていました。月に2万円でしたでしょうか、貰った給料は持ち歩くことは無かったものの、一人住まいの部屋の中に袋ごと置いておりました。誰かがわたしの部屋に入って、給料袋ごと持って行ってしまわないか?などとは寸分も思い及んだことはありません。

 

何しろ、同情される位に殺風景で古びており、今で言うワンルームの和室でしたので。仮に入った泥棒がいたとしても、同情してお金を置いて言って呉れることだって有り得るほどでした。

 

テレビもラジオもない生活でした。古い貰ったテレビは電波が悪くてあまり映らず、捨ててしまいました。ラジオは買えなかったので、本ばかりを読んで暮らしていました。それでも不思議に不便は特に感じなかったですね。

 

給料袋は凡そ二十日を過ぎる頃には二、三千円程度にしか残らず、二十五日の給料日までは、「桜飯(さくらめし)」とか、丸っぽのキャベツにマヨネーズをかけて食べたりして、食いつないでおりました。桜飯は今の若い人は知らないかもしれませんね。

炊くコメに醤油を入れるだけの、これ以上簡略をしようもないほどの貧しいご飯でした。

 

程なく給料袋は空になり、立ったわたしの手から離すとℤ型に左右上下に揺らいで床に落ちたものです。給料袋での給料には、刻々と減って行くお金との生活が実感出来ていた気がします。

今でも給料は給料袋で貰ったらいいなと思うこともあります。あの頃は、世帯がある人は

『現金輸送車、本日は家まで直行します』

など言って、独身のわたし達を羨ましがらせたものです。

 

 

ケチな人

 

画像出典:meaning-difference.com


何十年も前の話。

ある日本のプロ野球球団の一軍監督の一人がひどくケチだという話題が巷に広がっていました。それによるとなんでも、タバコ一本ごとにその監督の名前を書いている、と言うものでした。

『あはは、まさか』

とわたしは笑いましたが、ケチな人を端的に表現しているなとも思いました。

 

■ ケチな人の常

ケチな人はどういう立場になっても、お金を使いたがりません。というより、お金を使うことに苦痛を感じるのです。心的苦痛です。たとえ一円でも出費は押さえたいし、その為には思いも寄らない節約術を身に付けていたりします。

従って、本来ならお金を出さなければならないと非常に陰鬱になっていたところを、出さずに済んだ場合のケチな人の喜びようは、尋常ではありません。心の中で、

「やったー」

と叫んでいるのかも知れません。

なお、冒頭のタバコの話ではケチと言うことに納得しましたが、実際にその監督がそれ程にケチだったのかは、今になっても分かりません。

 

 

■ ケチもかなり損をしている

ケチだけでである事は犯罪ではないのですから、訴えられるようなことはありません。しかし、ケチも程度としなければ、やがてはこの監督の様な誹り(そしり)を免れません。

又、うんわ来るくすると、訴訟沙汰に及ぶ可能性も無いではありません。そうなると家族や親戚は、そうなると肩身の狭い思いもしなければならず、その逸失利益は、計り知れません。

ケチな人はまた、損をすることを極端に嫌います。しかし、少しも損をせずに一生を送ることはほぼ不可能です。損をしないで喜んだのも束の間で、思いもしない不幸や不運に見舞われて、貯めて来た財産を失うということもきっとあるでしょう。長い人生には、何度となく損をしなければならない場面に遭遇するものです。

 

 

■ 損して得を取れ

昔からのことわざに「損して得を取れ」と言うものがあります。意味は、

目先だけの得を考えるとかえって大きな損をすることがあり、逆に今の損を我慢すれば最終的に大きな得を得ることがある

 

と言う教えです。まずは損という将来のための投資をして我慢をしなければ、その大きな果実も得られないという事でもあります。まず、損と思える出費をわざわざすることがケチな人には出来ません。損をしたくないために、将来のための投資が出来ないのです。

 

ケチな人は、結局損は殆どしないかも知れないが、得もまた殆どない、と言わねばならない結果となります。

 

 

■ 節約家

ケチに似た人に節約家が居ます。お金を使うことに心的な苦痛を感じるという点では殆ど同じかも知れません。ただ、節約家はお金を使わねばならない時には、ケチな人程には抵抗しないと言えます。そうでなかったらケチと同じになりますから。

両者は、普通ならお金と引き換えに物を手に入れる事を、喜びとするところを苦痛と感じる点で殆ど同じです。

 

ハトの餌やりする人に思う

画像出典:日本鳩対策センター

 

テレビなどで報道されるハトの餌やりの迷惑行為。ある自治体では、禁止条例まで作って規制をしたりしています。確かに、鳩が群がって餌に向かうところを見ると、少し薄気味悪いという感情も起きますね。

 

それに、抜けた羽や白い糞、電線や街灯、植え込みの木の枝などに群れを作って止まっているのを見ると、糞の害に合わないかヒヤヒヤします。それが運悪く衣服に落ちた日には、憤慨を静める事には難儀します。

 

わたしも若い頃に一度、大阪の天王寺のJRのホームでハトのフンが頭に落ちて来て、えらい目にあいました。持っていたハンカチやら新聞で何とかその場は繕いました。それで、今でもハトは嫌いです。ハト派もですが。

 

■ 条例で止めることは難しい

ハトへの餌やりを条例を作っても規制することはなかなか困難です。というもの、その人がなぜハトに餌やりをするのかを知り、その人の心のケアをする事の方が、はるかに必要だからです。

 

わたしも、スズメにほんの少し餌を与えたりして観察したりします。

その餌やりが慣れてくると、わたしが玄関に出るだけで、早朝などどこからともなく舞い降りてきて、近づいて来たりします。

『今日は、ちょっと遅いのと違う?待ってたんや、あんたを』

てな風です。

 

少し餌を撒いてやると一羽だけが特に、わたしに慣れていて撒くわたしの動きに、そう恐れる気配も見せず餌をつついています。この時には他のは、やってきません。

その一羽がなかなか可愛いのです。

 

 

■ 撒きえに寄って来る嬉しさ

さて、撒きえをして、スズメが五羽最終的に寄って来て、無心に食べているのを見ていますと、ハトに餌をやる人の気持ちが少し解る気がします。ほんの餌やりの動機の一端に過ぎないかも知れませんが。

 

ハトは単に餌をくれる人間と言う認識に過ぎないでしょう。しかし、餌を野に探す苦労から考えて、はるかにありがたい筈です。人間を信用していない、捕獲される可能性もある、だろうけれども餌が貰えるのは捨てがたい魅力でしょう。

 

それで、ハトは餌をくれる人に近寄って来る。

 

わたしがスズメに感じた

「なかなか可愛い」

を多分ハトに餌を与える人も感じているのではないでしょうか。そして、家では家族に特に大事にされている訳でも、期待されて居る訳でもなく、居なくてもいても存在感が無い。そういう人は、自分が必要としてくれるハトの方が可愛い、と思えるのでしょう。

 

また、ひとり暮らしであってみれば、愛情がハトに移るのも致し方ないのかも知れません。人は、誰かに必要とされ生きていることに喜んで欲しいものです。

それが、ハトの餌をやる人の心情でしょう。

 

 

■ 迷惑行為

それがハトに餌をやる人の心情であっても、人に迷惑をかけていることに変わりはありません。餌やりを止めてもらうしかありませんが、行政でも離れて暮らしているかも知れない肉親でも、愛情を持って餌やりの人を接していれば、納得してくれることも、そう難しくはあるまいにと、ふと思った次第です。

続々・五羽のスズメ

画像出典:Canon グローバル



 

既報の「続・五羽のスズメ」の続報です。

これまでのわたしの真剣ではない観察では、次の点に留意しておりました。

 

① 食べ物を確認して突いて食べるのか?

② スズメは、味覚があるのか?

③ 甘い食べ物と甘くはない食べ物、どちらを好むのか?

④ 時間は分かるのか?

でした。

 

■ 結果報告

大した観察ではありませんが結果を報告します。

 

① 食べ物を確認して食べるのか?

 

これについては、道にばら撒いたスズメの餌を食べる様子を見ていますと、餌の傍に同程度の大きさの小石があっても、間違って突くことはありませんでした。ちゃんと、見分けてつついていると言えます。

しかし、食べ物であると即断をどのようにして下しているのかは不明です。何しろ、目まぐるしく首を動かせてあちこちをつつくのを見ると、当てずっぽうにつついている気もしないではありません。

或いは食べ物から発せられる匂いで、見分けているのかも知れませんが、わたしの憶測にすぎません。

 

 

② スズメには味覚があるのか

 

味覚は間違いなくあり、しかも鋭い。撒きえをした時におつまみの「柿の種」の柿の種状のオカキをスズメの口に合うように砕いて、他の餌に混ぜて与えてみました。

他の餌は主にビスケット類やケーキ地の甘いものが殆どでした。

撒きえを見ていますと、スズメは柿の種のオカキは口に含むものの、直ぐに吐き出しました。吐き出したスズメとは別のスズメがそれを口に含んでも、同様にしたことから、ピリッと辛いはスズメの口には合わないということが確認できました。

しかし、全く食べないかと言うと、そうでもありません。他の餌が食べ終わり、まだ飽食とまで行かないという時には、ピリッと辛い柿の種のオカキでも最終的には平らげています。

よって、辛いものは厭だけど食べられない訳ではないという事でした。

 

 

③ 甘い食べ物と甘くない食べ物、どちらを好むか

 

これは、ビスケットやケーキの生地の様な甘いものに混ぜて、食パンの細かな白い部分を細切れにして一緒に撒きえをしてみました。

これは一目瞭然です。

甘いものをまずは食べて、それでも飽食と行かない時は食べるということで、柿の種のオカキと結果としては同じでした。

甘い物には、スズメは目がないと言えます。(わたしもスズメ並みです)

 

 

④ 時間は分かるのか

 

これは、スズメが時間をわかるかどうかは、分かりませんでした。

撒きえを決まった時間に出すと、それを当てにして朝早くから日中において、ずっと近くの木に待機していますので。わたしの行動はスズメたちに監視されている気がします。

 

時間は分かるのかわからないのかは分かりません。

 

 

借金を日常的にする人

 

画像出典:山本FP事務所


日常的に借金を繰り返す人がいます。

生活費が足りない。急な入用で手元が不如意となった。今どうしても欲しいものがある。

など、理由は幾つも有るようです。そして、それはそれで借金をすることは、当人にとっては正当なものでしょう。借りてもちゃんと期日には返すのだから、いいじゃあないか。もっともです。

 

 

■ 借金を手軽にする人

思うに、借金を手軽にする人は、貯蓄をしません。貯蓄をしないから、入用の時には借金が必要となる訳です。

貯蓄とは、長い将来に渡る間に起きる、いざという時の為に積み立てて置くお金です。欲しいものを残念して積み立てる忍耐が無ければ出来ない事です。しかしまた、その決心さえ出来れば、直ぐにでも始めることが出来ます。

 

 

■ 多くの日本人

昔から、親にはこのように言われて育ってきました。これは、多くの日本人が経験するところです。

「欲しいものがあったら、まずは貯金をしなさい。それが買うに足りる金額に成ったら、買ってもいい」

と。それが何かの手伝いの代価であったり、お年玉の貯金であったりしました。

 

従って、まずはお金を貯める事が先決事項です。何かを買うということがその後に来るのです。まずはお金を借りて買うなどとは、しないというか出来ません。まず買い物をして、それから返済を始めるというのは、日本人ではその数は少ないでしょう。が、借りてでもすぐに何とかするという考え方は、増えてきている気がします。

 

根拠が示せる訳ではありませんが。「明日は明日の風が吹く」という考えが心のどこかにあるのではないでしょうか。また、現在の自分を出来る限り輝かせて居たいという、気持ちがどこかにあるのでしょう。それは、明日には、自身がどうなるか知れないから、という気持ちがあるのかも知れません。

しかし、戦乱の時代ならともかく、大抵の人は明日も明後日も普通に生きて、朝を迎えられます。生きています。

 

 

■ 明日は明日の風が吹かない

コツコツと将来に備えてお金を貯める事が、まどろかしくてやっていられないという訳です。若い時は、誰でもそうですが、お金は若い時でないとなかなか思う様に貯まりません。

 

若い時に飲まず食わずで貯めるため、擦り切れた衣服を身に付けていても、若さゆえ誰も笑ったりはしません。妻や子のいては、そのような恰好をしていれば、家族でも嫌がられます。

三十歳も過ぎると結婚しているいないにかかわらず、なかなかこのようなスタイルでの生活は、陰口をたたかれる。

『あの歳になって、あの格好は無いだろう?』

とか

『給料が安くて買えないのか』

などです。だからお金を貯めるには若い時の方が良いのです。

明日は明日の風が吹けば良いのですが、吹かない可能性はいつでも高い。その場限りの欲求の充足が、明日の風を吹かしてくれなくする。

 

 

■ 韓国の例

韓国の個人負債の総額が、GDPを超えたと騒いでいます。これは、韓国民の一人当たりの借金が世界一ある事でも納得です。韓国の人達もお金を借りることに特に拘(こだわ)りをもつ様子が伺えません。

この辺の心情はアメリカの人達に似通ったところがあります。

将来の事より、今と言う時を大事にするという、気質でしょうか。喜びや満足を今、手に入れたい。将来に付けを残したとしても。

そういう、気持ちの先行があります。それが、クレジット会社の思惑にきっちりと組み込まれて重い付けを後から支払うという訳です。

 

無論、借りた金を返すプランや抵当があって借りているのでしょうが、もし返済に詰まってトドの詰まりは、破産へと進むしかありません。そして、もしもなどは大抵の場合現実となります。

 

 

■ 日本人は貯金しすぎる

しかし、韓国やアメリカ人ほどでなくとも、お金は使ってこそ値打ちがあるものでもあります。お金は使わないと無いのも同じです。ただ、持っているという信用や安心感があるだけです。

日本人は貯金しすぎます。

日本人は韓国やアメリカの丁度中間くらいが良いのでしょうね。

 

 

 

 

新型コロナ 欧米の対応

画像出典:NHK

京都大学の藤井教授が、テレビでヨーロッパを歴訪しての報告で、

「ヨーロッパでは、新型コロナは終わったこと。マスクもしていないし気にもしていない」

と言う趣旨の昨日発言をされていました。

 

従って日本が感染者で世界でトップと言うのは、数字だけの事でまともに受け止めない方がよい。すべての感染者をヨーロッパではカウントしていない、とも述べています。

確かに、アメリカも少なすぎますし、ドイツは今月の初めころから感染者の発表すらしていません。また、数日前からイギリスも発表を止めました。スペインやオランダも追随しています。

 

アメリカは、サル痘の方に注意を喚起しております。非常事態宣言すらしました。

 

 

だからといって、欧米に感染者が劇的に減少したという訳ではありません。コロナと一緒に生きるという訳でしょう。つまり、インフルエンザ並みの対応を考えているのでしょう。

また、日本が感染しまくるというのも良くはありませんが、必要以上に騒がない方がいい。

才能の差

 

画像出典:ホイミ

人としてこの世に生を受け、天分をいかんなく発揮して、世間の耳目を集めたり歴史に名を残すような偉業を打ち立てることは、はかなくも人の夢でありましょう。

 

たとえそれ程にまで行かなくても、自身の才能を開花させて人生の成功者として満足して死んで行けたらと思うものです。

「人の数だけ才能は有る」と言います。しかし、それは人の社会でどれ程に評価されるかを考えれば、趣味の域、同種の才能者の半分の域などである事が殆どです。それに満足すれば、それで良いでしょう。しかし、更に高みに進む時、才能の差は忽然と現れて来て、煩悶の種となる。

 

 

■ その為には

その為には、やはり不断の努力も必要です。

しかし、どんなに努力をしても持って生まれた豊かな天分としか言いようのない同分野に才能をを持つ人には敵いません。その分野でその人の為にだけ特別に与えられたと考える外ないような人より抜きんでた才能を発揮する人がいます。

 

 

■ 天才とは

このような人には、凡人が重ねる血と汗と涙の努力を持ってしても殆ど歯が立ちません。凡人が何年も掛けて積み重ねて来た末に築いた努力の結晶を、僅か半年とかを経ずして会得したり、それを更に高みにまで引き上げる程の力があるのです。

 

それ故、例えばエジソンの名言である次の言葉、

「天才とは、1%のひらめきと99%の努力である」

 

などを見ると、少し空虚に思えてきますね。エジソンも一日に16時間も研究に没頭したという事実がたとえあって、その中に山ほどの失敗があったという話にも、その1%の才能に差がある筈であるなどとわたしなどは、どこまでもひがんでしまう。

 

 

■ 秀才

このような天才と呼ぶ人でなくて、いわば秀才と言っていい人ならわたしの周りにも幾人かいます。何というべきか、ちょっとした複雑な事の経緯(いきさつ)をすんなりと理解し『これはこうすれば良い』

などと、先を見越したように言える人もいれば、

『これは、このような事例からこうすればよい』

など、どのケースも凡人よりはいち早く思い浮かべて、その解決策も同じ位に早く出せるというような人です。

 

 

■ 凡才過ぎる人

わたしは、このような天分の人を驚嘆したり絶賛します。が、わたし自身の能力から遠く隔たっている事から、ことさらに羨望したりしません。歴然とした才能の差があるからです。

 

わたしが羨んだり悔しがったりするのは、わたしと大して違わない凡才で有るのに、偶然や幸運や引き立てがあって、わたしの遠く及ばないところに登る人です。

 

努力や苦心をしながらチャンスをつかんだのであれば、悔しくとも納得するしかありませんが、親族や知人の人脈などを使って、巧妙な手口で地位を掴んだような人には、納得がいきません。

 

が、そのようなギラギラとした嫉妬や自分の望みを、最近は何故か何とも思わなくなりました。今更にどのような努力を持ってしても、どうにでもなるものではないとういう諦念でしょうか。歳のせいでしょうか。

 

そのようなわたし自身をわたしは、残念におもう。ただ、わたしはわたしの報われることのないイラストを描き続けるライフワークを死ぬ間際まで努力し続けたいとは思う。

 

ハクション大魔王

 

画像出典:読売テレビ


我が家の斜め向かいの家の主人は毎朝、決められたように、大きなくしゃみをする。殆どの場合一回で終わらずに、少なくとも三回、いや五回以上も続くことも珍しくない。さすがに十回は無いけれども、八回ならある。ほとんど毎日の事だから、数える事もあるのだ。

 

■ ハクション大魔王

この主人の事を、我が家では「ハクション大魔王」と呼んでいる。漫画のそれとは関係は全くないが、あれほど大仰に数多く一度にくしゃみをする人を、この歳になっても一度も見たことがない。だから非常に適切なあだ名であると、わたしは自負している。

 

主人のそれは、季節に関係は無いようで、年中において一日の午前九時頃までに一度はあって、日中にはまるで無い。これは不思議である。

またくしゃみは憚る事無く勢いよくするので、我家の部屋の窓を開けていなくても、非常によく聞こえてくる。春とか秋の気候の良い時に窓を開けていたりすると、数メートル先の事の様に明瞭である。

 

それから察するとどうやら、花粉症とか鼻炎と言った類の病気ではないらしい。けれどもあれだけ勢いよくすると、喉を傷めつけている可能性があると察して、自分の経験から余計な心配をしたりもする。

 

■ くしゃみの主人

主人は、頭は白髪で殆ど手入れがなされていない。禿げが進む頭ではなく、総髪が白髪になるタイプの様で、毛髪量が多大であるため、殆どスズメも巣のようでいつもボサボサなのだ。

仕事は理系の教師である外は知らない。歳の頃は五十歳代半ばと思われるが、確信はもてない。子供が四人もいて、皆が学校に通っているので、生活に追われていてそこまで気が回らないのかもしれない。

 

しかし、それであればもっと短髪にすればよいだろうにと思う。それに黒ぶちの大きなメガネに前髪が覆い被さって、マスクをしていると、誰だかまるで解らない。近所でないところで出会っても、気がつかずにわたしは素知らぬ顔で通り過ぎるだろう。

 

何も、わたしの頭がツンドラと言うか、ぺんぺん草が生えているグランドの様だからといってひがんではいない。人は相応の歳になると、だれでもボサボサ頭は見苦しいものだと思う。

 

■ 愛想は良い

しかし、主人は不愛想ではない。すこぶるよい。顔が合えば遠くからでも米つきバッタのように視線が逸れるまで笑顔で頭を下げてくれるし、若干腰も折り曲げもあって丁重である。

 

それを知っているので、くしゃみをしながら本人はどんな顔になっているのとか、家族はどんなリアクションをするのか、一度見てみたい気がする。

 

わたしも、くしゃみを若い頃にはして、子供が幼い時には随分泣かした。くしゃみが大きくて、子供は叱られたと思ったようである。しかし、フラストレーションが残るような、半かなくしゃみはしたくはない。今でも、する時は主人の様に心おきなくすることにしている。

 

 

 

 

銀も金も玉も(しろがねも くがねも たまも)

画像出典:なんぼや

 

今年の3月初めころには金価格は史上最高値を付けました。それから7月下旬である現在まで右肩下がりに下落して来てはいますが、それでもおいそれとは買えない程に高価です。

 

わたしは売るほどの金をはじめとした貴金属の宝飾品類は持っていません。それ自体に殆ど興味がなく欲しいとも殆ど思いません。家族はどう思っているのかは知りませんが、少なくともわたしは。

しかしながら地金(じきん)ほか銀とプラチナをそれぞれ、月2,000円積み立てをしております。。始めてから凡そ一年になりますかね。

 

インフレや有事の金などと言いますが、本当に抜き差しならぬ有事に成ったら貴金属より食べ物や生活物資の方が大切です。金など持っていても、腹は膨れませんし、今わの際に至っている者にとってどれ程の意味がありましょうか。

 

しかし、現実にはそこまで有事である事はまずないとわたしを含めて、誰しもが思っています。

しかし、この世の中どんなことがあってもおかしくありませんし、そんなことはあり得ないとか起こりえないと思えていたことでも、実はあり得ます。例えば、ロシアウクライナの戦争とそれによる世界経済のインフレなど、その象徴的な出来事です。

 

ウクライナの政権部の人達も、ロシアが攻めてくるとは思わなかったでしょう。

「この民主主義の時代に、戦争なんてありえない」

と考えていたのではないでしょうか。しかし、実際に戦争は起きました。

 

わたしのこのブログの副題は、

「天と地の間に新しいことなし」(ドイツのことわざ)

です。人間と人間社会は進歩して来たようにも見えますが、実のところそれ程でもありません。というより、殆ど進歩しておりません。形は違っても、同じ道を通り同じ過ちに落ちています。

 

■ それなのに

それなのに、有事には腹の足しにもならない、貴金属の積み立てをするのは、わたしは何故なのか。

食べるに困る破滅的な世界や日本の社会が、まさか来ないだろう。であってみれば残された家族に、貴金属も少しの訳に立つだろうとの楽観的で希望的観測で行っているに過ぎません。

わたしも、少しも進歩がないのです。