聖護院 京極のブログ

天と地の間に新しいことなし(ことわざ)・・・人間の行動は今も昔も変わってはいない

葉っぱの健康食品考

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桑の葉

画像出典:HORTI

 

テレビCMには色んな分野の物が入り交じっていますが、面白いのは、健康食品(健康飲料や錠剤)でしょうか。

 

■ 〇〇の葉

のこぎり椰子の葉

熊笹の葉

銀杏の葉

イタドリの葉

オリーブの葉

桑の葉

ブルーベリーの葉

など、枚挙にいとまがありません。こうなるとおそらく、どんな植物の葉であっても、健康食品となる気がしますね。

 

わたしの故郷にもあったこれらの内の幾つかを、記憶を元に書いてみました。

 

 

■ 桑の葉

桑の葉は、子供の頃に父が養蚕(ようさん)を一時期やっておりました。そのための母屋より大きい小屋まで立てたほどに利益が出たようです。わたしも桑の葉を採取に付き合ったことがあります。蚕にも与えた記憶が僅かに残っています。

 

蚕が食べる桑の葉がそれ程健康に良いとはおもいませんでしたが。もし、桑の葉を食べて、うんこが絹になるなら食べてみたい。

 

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画像出典:ネットショップより

桑の実もよく食べました。「赤とんぼ」の中にも「・・・桑の実を小籠に摘んだは まぼろしか」というくだりがあります。また、水泳していてこの実の色に唇がなったら、水から上がって日向(ひなた)に居よ、と学校から指導されたものです。

その時の紫いろの唇の色の事を「ふなめ色」と呼んでいます。わたしたちの一地域の呼称のようですが。

 

■ 銀杏の葉

銀杏は我が家にはありませんでした。これはお隣にあって、落葉が美しいとは思ったものの、健康食品になるとは、生まれてこの方、夢にも思いませんでした。単に秋に映える黄色に魅力を感じていましたが、落ちた銀杏の臭さに近寄りもしませんでした。

 

 ■ イタドリの葉

イタドリの葉は食べませんでしたね。というか、葉が出るまでの柔らかい部分をを皮を剥き塩を付けて食べておりました。酸っぱくて今思い出しても、顎の唾液腺が痛くなる程です。

 

いわば、竹の子を食べるような具合に似ていて、葉が伸びて成長してからはとても食べられたものではありません。

 

そのイタドリの葉なら、毎年故郷の村には厭というほどありますが。

 

最後に薬草で代表的なものも思い出しました。

 

■ ヨモギドクダミなどの薬草も

子供の頃には、ヨモギ餅は、彩が綺麗で春には祖母が作っておりました。ヨモギも薬草の一種なので、昔の人はちゃんと利用法を理解していたのですね。

 

また、ゲンノショウコドクダミという薬草は、野山から川べりにまんべんなく生えていて、これを採取して売ると子供の小遣いになったりしました。

 

また、黄連(おうれん)も日陰に少量しか育たない薬草の根でこれは高値で売れました。

 

今でも、自生している筈ですが、利用することも無く、売れもせず放置しています。

 

誰(たれ)か故郷を思わざる

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画像出典:song21century

「誰か故郷を思わざる」は日本国内では題名が難解でヒットしないだろうということで、戦地に送られて二次世界大戦の戦地で大ヒットした曲です。

「だれが故郷を思わないことがあるだろうか。いや思うに違いないのだ」という風に反語になっています。これが当初、難解な題名とされたゆえんでした。

 

わたしも、この時代の人間ではありません。が、昭和の生まれの人間として、時々この歌を耳にしますと、戦地からではなく都会に住むものとして、山間(やまあい)の我が故郷に思いを巡らすことがあります。

 

■ 故郷は廃るばかり

その郷愁は車で高速道路を走れば2時間とかからずに満たされれる近さにありますが、帰ったところで殆ど人に出会いません。わたしの年齢はおろか、高校生以下の子供をこの方久しく見たことがありません。

 

所用で地元のお寺の住職と話す機会がありました。わたしの同級生の行方を尋ねてみますと、

『知らんなあ、みんなこの村にはおらんから』

というものでした。そして、

『若い者が村におらん!』

と吐き捨てるように言った言葉が現実を語っています。

 

■ 若い人がいない

村に若い人がいない事が、村を衰退させる原因なのです。では、何故若い人がいないのかといえば、働き口が近くにないからです。お金が殆どすべての時代に、お金を得る手段がない。これは深刻な問題で、殆ど解決不能に思えます。

 

■ 廃ると余計に湧く郷愁

そのように、村が寂れれていくのを見るにつけ、京都市内から遠くなくても郷愁は年々増す気がします。子供が稲を刈った田に入り、ソフトボールをしたり、瓦投げをしていた光景が、記録映画のように思い浮かびます。

 

その田にも今は人影はなく、放置され、夏場には生い茂ったであろ雑草が、冬場に無残枯れて荒涼としているばかりです。

 

■ 都会に出た人の子供の故郷ではない

故郷から都会に出て、そこで生まれたわたしの子供の故郷は、生まれた都会の地であります。親の故郷ではありません。親が持つ故郷への思いは、殆どないでしょう。これがまた、わたしを故郷が廃れるとい郷愁に駆らすのかも知れません。

皮肉なこと

 

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皮肉とは

「皮肉」とは、辞書に拠れば次のようになりまます。

1.

《名》弱点をつくなど骨身にこたえる事を、それとなしに言う、意地悪な言葉。当てこすり。
 「―屋」

2.
《名ノナ》意地悪に見えること。「―な笑い方」「―な運命にもてあそばれる」。予期に反し、意地悪をされたような結果になること。
 「―にも、みずから定めた法に裁かれる」

 

今日は、皮肉にも色々な解釈がありますが、太字の部分の意をもってこの記事とします。

 

■ 知り合い

わたしの仕事上の付き合いがある男性は、大学時代から水泳で鍛えたマッチョな体と、180㎝を超える長身から、いかにも健康そうでありました。食べ物の量を調節し運動を欠かさない。食べ物の質には何故か、殆ど制限がなかったのはその心掛けの主旨からいえば不思議ではありました。

 

■ ガンの告白

 仕事上の付き合いから離れても、年賀状のやり取りは交わしておりました。すると、近年の年賀状に「前立腺ガン」の告白の記事が印刷で書かれていました。印刷である以上、広報したということでしょうか。

 

 ■ 皮肉なこと

皮肉であるのは、彼が人より、恐らくわたしよりは健康に注意していた人であったのに、このようなガンになったことです。

 

なる時にはなるのかも知れませんが、要するに摂生した生活だから、ガンにならないということではないのでしょう。

 

だからと言って摂生しない生活ではそのリスクは高まることは間違いのないことでしょう。芸能人に、あれほど見た目に健康そうなのにという人が、ガンを告白したということはよく目にするところです。そういう人に、健康志向は多いのは、何とも皮肉です。

 

わたしは、一番大事なのは、十分な睡眠をとることであると、根拠なく信じている。

 

寝ているうちに、一日の中でDNAが損傷を受けた部分の修復が行われるのに、睡眠が足りないとそれが不十分なままに終わり、また一日が始まることになり、それがガンへの引き金になるに違いない、と信じているのです。

 

 

食べ方が汚い(ボロボロこぼす)

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イメージです

画像出典:たべまる

 

今は引退して久しい有名な野球選手が、会食の時に食べ物をテーブルや床にボロボロとこぼすという話を聞いたことがあります。その時、わたしも自身の事と同じだな、思わずニヤリとしたものです。わたしの場合、小学生の頃からなんです。

 

■ 食べ方が汚い

わたしの、食事時の食べ方には、家族から相当のクレームが寄せられます。

『あ、またこぼした。床に落ちたぞー』

『お父さんの、椅子の下にはいつも(食後に)床に食べ物が一杯落ちている』

 

とか

『服にこぼした。染みになるから厭だ。早く脱いで”!つまみ洗いするから』

などです。わたしの食べ方からくる食べ物をこぼすのは、小さな子供のそれと違わないのであります。

 

従って、赤ちゃん用のつばのあるネットを体からぶら下げろとか、裸で食べたらどうかなど、わたし抜きで議論されることも一度や二度ではありません。

 

■ 原因 ①テーブルとの空き

床に落とす原因は、わたしの体とテーブルとの間に隙間が多すぎることが考えられます。この空きを無くするようにテーブルに体がくっ付く位に寄せれば、床に落ちずにテーブルに落ちる筈でこれなら問題とならない。これには一理あるのだが、なぜか食べ辛い。

 

テーブルと体との空きは、大体大人のこぶし程度は開けるのが正しいらしいのですが、わたしの場合こぶし3-5個は空いている。しかし、姿勢を正せばその正しい位置にくるから、恐らく猫背になって食べているのだろうと思われます。

確かに、猫背ならおかずが着衣にも落ち易い。

 

■ 原因 ②テーブルの上のおかずの位置

ボロボロとこぼすのは、床だけではありません。

テーブルの上でも同じで、口に入るまでにおかずがテーブルに夥(おびただ)しく落ちています。これも、遠くの位置にある、食べ物を猫背のまま取るので、リーチが長くなり落とす割合が多いのかも知れない。また、箸の持ち方に問題があるのかも知れません。

 

これも、気が付いた時には正すようにしてはいるのですが、いつの間にか元に戻ってしまっています。

 

以上、今日もまた、小言を言われながら、おかずをこぼし愚痴を内心でこぼし、食べております。食事時の姿勢を正すのが一番の解決策ではありますが、人生の半分以上を過ぎ、残された年月を勘案しますと僅かでもあり、小言を言われながらこのまま食べたいように食べ続けてもいいだろう、と思わないでもない。

もし、お金持ちが貧乏になったら

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画像出典:ヨムーノ

お金持ちは、いつでも何事においても自信たっぷりです。この世の殆どの懸念は、お金で解決し、それを彼らはもっているのですから。それゆえ彼らは、かなり尊大です。一般的な生活者を見下していると見受けられるところが、少なからずあります。

 

これは、一般的な生活者であるわたしの卑下した感覚もかなり含まれていますが、それを差し引いてもなお感ずるところです。

 

■ お金持ちが貧乏になったら

わたしの望みもお金持ちですので、お金持ちが嫌いなわけではなく、ありがちな自信たっぷりな態度や尊大な態度が嫌いなだけです。お金持ちになれば誰でもそうなるのでしょうか。

 

もし、現在のそのお金持ちが、何かの理由で貧乏になったら、どんな生き様に変わるのかは見てみたいと思う。

 

先代からの資産があって、裕福な暮らしの場合には、それまでの生活態度が抜けきれず、カネもないのにある風に装い続けるのか、一変して貧乏臭くなるのか、大変興味があります。人間はそう簡単に生活を大きく変えることが出来ないので、貧乏になることに一般人より拍車がかかる気がします。

 

つまり、これまでの生活を捨てきれず、次々と資産の切り売りを行い、身ぐるみを剝がされて最後は、その身一つになる。その公算はかなりあります。明治、大正の時代の富裕層が大正末期から昭和に入り没落していったように。

 

■ その人に才能が有れば

その人に、お金を稼ぐだけの才能や知識があれば、その身一つとなっても、立て直すことは可能でしょう。しかし、カネがある時とはかなり低姿勢というか、卑屈になるざるを得ないでしょうね。食うための仕事を貰わなければなりませんから。

 

そんな時に初めて貧乏な人の気持ちがわかるのかも知れませんが、貧乏な人が更に貧乏になるのとは違い、もっと屈曲した思いが湧きだすのではないでしょうか。不幸にも没落したことへの恨みが、自分自身にではなく社会に向くようなことです。

 

■ 金持ちになったら

わたしが金持ちになったら、羨んでいた金持ちに見せつけたい、見返したいという気持ちはあります。そしたら、どんなにか、溜飲が下がるだろうとも思います。

半面で、

これまでと同様の生活を少し豊かにするだけで、いかにも裕福そうに暮らしたくはない。冒頭で書いた、金持ち自信満々の態度や尊大さを出したくはありません。

 

静かに、一般的な人と違わない程でありたいとも思う。そういう日が来ればの事ですが。

他人の靴を履き替えて帰る時代があった

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イメージです

画像出典:piterest

 

今の日本人は、学校教育の恩恵か人の物を黙って持って行ったり、古い自分の持ち物を他人の比較して新しいものとを交換して持って帰るというようなことは、殆どあり得ません。

 

道徳を学校教育で教えられ、育った人たちが日本の主流を占めている時代になったからでしょうか。海外の試合に日本人が遠征しても、自分たちの応援席や選手のロッカーなどは、綺麗に清掃してから離れるということが、たびたび海外から賞賛を受けたりしますが、これらも道徳教育の賜物です。

 

落とし物があれば、交番に届け、落とした人に直ぐ気づけば追いかけて行って、渡すなども国内では極く普通に見かけることであります。

 

■ 子供の頃

翻って、わたしが子供の頃には、そのような道徳的な行動は誰も取ってはおりませんでした。あるいは、わたしたちの村や町のごく一部だけの事だったのかも知れません。しかし、兎も角わたしの村にはそのような道徳的な行動をする人は、殆ど居なかったと思います。

 

財布が落ちていれば中身だけ抜き取るなどということは、ごく普通でしたし、罪悪感もありませんでした。

 

■ 人が多く集まる会

「村人が多く集まる会には、よい靴やサンダルを履いていくな」

とよく言い合ったものです。会が終わると直ぐに、靴脱ぎ場に行き、自分の物を確保しないと、誰かが自分のものと履き替えて帰ってしまう、というようなことは日常茶飯事であったからです。

 

■ 残されているのは、ボロボロ

こういう集会では、靴脱ぎ場が込み合うのを避けて、最後に帰ろうとすると、自分の履いてきて靴が無くなっていることが普通の出来事でした。

『しっかりしていないからだ』

と親には叱られたりしました。

 

ただ残された履物は、見たことも無いものでボロボロのものでした。

勿論自身の物ではありません。誰かが自分の物より良いものを履いて帰ったのです。では、誰がそのようなことをしたのでしょうか。その真相は迫れません。最初に誰かが、一番良い靴を履いて帰り、それを履かれた人が次に良いのを履いて帰りという風に連鎖しているからです。

 

当然ながら、すべての人が同じことをやった訳ではありませんが。

 

■ 裸足で来た人はいない

最後に出た人が、履いて帰ったのはこのようにしてボロボロの履物でしたが、一足分はともかく残っていたので、裸足で集会に来た人はいなかった、という事にはなりますね。

 

わたしも何度か他人の履物を履いて帰ったことがあります。これらは、余りにも目立つものでは、後日見つかってしまうこともあり、そこそこの物であったと思います。親は、それを非難もしなければ、特別に褒めてくれる訳ではありませんでしたが、新しい履物を買う時期がずれた事は、当時のわたしには、手柄であったと言えます。

 

■ 今は

今はさすがにそのようなことはあり得ないと思います。よく落とし物が木に掛かっていたり、誰かが預かっていてくれたりすることがありますから。

 

 

 

 

視力が悪いと困ること

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画像出典:Amazon

 

街中を歩いていますと、男性にメガネをかけた人は多いのですが、女性はその半数にも至りません。視力の悪いのは男性に限るのでしょうか。

 

そうではありません。おそらく男性と数にそうは変わりはないでしょう。しかし、メガネをかけた女性を見かける人数(ひとかず)が少ないのは、彼女らが視力は悪いもののメガネをかけていないか、コンタクトレンズを着用しているかであろうかと思われます。

 

■ 近所にも

近所に視力の悪い奥様がいます。メガネをかければいいのにと思うのですが、コンタクトレンズ以外は着用しません。従って、こういう人は誰でもですが、遠くを見る時は、目を細めたり、目つきが怪しくなったりしますので、視力が悪いのだと直ぐに気づかされます。

 

■ メガネ

わたしも、若い頃は少しでも見てくれを良くしようと、視力が著しく悪化しつつあってもメガネを着用しませんでした。着用するのはどうしてもしなければならない、車や単車の時に限られていました。しかし、メガネをかけなかったところで、わたしの男ぶりが数段良くなった、メガを掛けたら数段落ちたという話は、誰からもひきだ得えませんでしたが。

 

■ 最近の視力が悪いと出来る不都合

視力が悪いのにメガネなどで矯正しないと、大変不都合が生じます。

先に書いた近所の奥様が、ゴミ出しに行くだけだからと言って、家を出る。近所の人に出会うが、誰だか判断が付かない。知らない人かも知れないからやり過ごしてしまう。

 

『あそこの奥さん、出会っても挨拶もしない』

などと言われる可能性があります。

 

奥様も、向こうが挨拶してくれたら、誰が誰だか分からないが、ともかく同じように頭を下げることはするの筈で、お互い様だろうとは思われているのかも知れませんが。

かといって、メガネをかけないまま、出会う人にいちいち挨拶していたら、救急車を呼ばれるかも知れない。

 

■ すれ違いざまに確認

わたしの経験からいえば、眼鏡をしていないと、自転車や単車のような乗り物から挨拶されると、相手とこちらが10㎝位に近づいて初めて、確認できるということがありました。

 

その時は、

『やあ』

手を挙げて、相手に返した時には、相手は数メートル先に行っているというようなことは、ほぼざらにあます。これも、相手がしてくれた挨拶を返さなかったと理解される可能性が高いので気を付けなければなりません。

 

また、こちらはちゃんとメガネをかけて外出した時に、目の悪い知人に出くわし、手を挙げて

『やあ』

と言っても、全く無視される時があります。そういう時、わたしの挙げた手をどのようにバツの悪い思いをせずに下すかも結構苦慮するものであります。

そういう時は、内心

『メガネかけんかい』

と怒りながら、挙げた手を頭の上に置き、髪の毛を整える振り付けに代える技も身に付けるようになりました。

 

 

 

村一番の素封家の終焉

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イメージです

画像出典:Japaneseclass


 

先週の日曜日、外出している時に弟から携帯電話がありました。

弟は、開口一番、わたしの実家があった田舎の隣家の一人住まいの男性が死去し葬式も済ませているとの情報を息を切らして告げました。

 

■ 村一の素封家(そほうか)

わたしの実家の隣家は、わたしたちがそこに住んでいた時には、村一番の素封家(=おかねもち)でした。それに比してわたしの家は村で一二を争う貧困家庭でありました。

弟が知らせてきたその男性は、この素封家のたった一人の息子でした。

 

■ 高校卒業後

彼は、勉強嫌いで高校を卒業後は京都市内で職に就いたようでした。良い会社に入社したとしきりに彼の母親は自慢しておりましたが、僅か2年で離職し実家に戻り、農業の傍ら地方の小さな会社勤めもしておりました。

 

■ 結婚

そして、結婚し子供が二人出来、妻は町内のスーパーの店長として働いてもいて収入は盤石でした。彼の人生は、ここまで非の打ちどころのない順風満帆の歩みであったかと思います。さらには、当時は両親も健在で、町の名誉職にも就いて、隣家の隆盛は永久(とは)に続くと思われました。

 

■ 交通事故

しかし、不幸は誰に身にも予告なしに訪れるもので、隣家の生活が突如暗転することになったのです。それは、中学校への登校に出遅れた次男を、彼の妻が中学校にる途中に発生した。

 

大型のトラックと衝突し、二人は即死となったのです。彼女の運転する車が道路のセンターラインを越えて対向車線にはみ出したことが原因でした。何故、センターラインを越えてしまったかは、ついぞ分からず仕舞い。

 

■ 自暴自棄

突然の交通事故で妻と息子の一人を失って、自暴自棄になった隣人の男性は、多額の保険金で遊蕩し、働かなくなりました。そして、彼の父親も塞ぐようになり、数年の後に亡くなってしまいました。

残された、彼の老いた母親と中学生に入ったばかりの息子は、悲嘆の毎日であったことでしょう。

 

後に、息子は大学進学のために下宿をしていて、そこの一人娘と通じて子供が出来た。という話までは聞きましたが、それ以降のことは、父親である死んだ隣人からも、老いた母親からも聞き及ぶことはありませんでした。

 

 

■ 3か月ほど前に見かけた

わたしの弟は、ついこの間(この間といっても、3か月ほど前)、田を耕す彼を見たといいます。それなのに何故?

それが、急性のガンであったのだということです。田舎の事で、気軽に医者にかかることも面倒ではあったでしょうし、金銭の窮乏もあったようで、あるいは医者にかかることがためらわれたのかも知れません。

 

■ 今は

わたしは先週に隣家にあるわたしの実家であった、今はお墓しかない実家に戻って墓参りをした後、その家の前に立ってみました。静まり返って、人の気配はまるでしません。くたびれた軽自動車が置いてありましたが、タイヤを見れば久しく使われていないのが知れました。

 

この大きな家は、住む人もなく、朽ちてしまうしかないのでしょうか?

村一番の素封家がこのような終焉を迎えることになろうとは。どんなことにも、どんなものにも永遠はなく始めと終わりはあるもの。人生は明日はどうなるかは分からないもの、どうなってもおかしくないものですね。

 

 

 

養鶏

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画像出典:マイナビ 農業

昔も今も情報は、何かを計画したり始めようとする人にとっては、もっとも重要なことであることに変わりはありません。あれが儲かるという話が広がれればそれを後追いする。実はもうその頃に後追いしても「時すでに遅し」の話は、昔も今も変わりません。

 

という書き出しですが、難しいことは書きません。

 

■ ニワトリを300羽飼っていた

わたしが小学生の頃に、父はニワトリを300程度飼いはじめました。要するに養鶏です。ニワトリを飼う理由は、卵が高値で売れるという、その情報を元に最初に村の誰かが始めたものに、他の人たちが次々に追随したものでした。

 

■ 父も追随

父は、卵が高騰して儲かるらしい、と既に出汁殻(だしがら)のような情報を得て始めたころには、既に、しんがりというか最後発組になっておりました。ニワトリを飼い始めたのは、わたしたちの村だけでなく、京都という広い地域に渡っていました。

 

■ 昔の農業

昔から、農業といえば、村の多くの家が田を耕し始めれば、我が家も始める。種をまくのを見れば、我が家も蒔く。こういうパターンで充分でした。一昨年も去年も、今年であっても何一つ変わることのないというものでした、昔は。

 

■ 農業で食うには

しかし、その頃のわたしたちの村にも、コメ作りの農業だけでは食えないために副業をすることが多くなってきました。木を伐り炭を焼く、山蕗(ふき)きやわらびなどの山菜、柴などを売ることに精を出したものであります。これらも、他人の始めた事のみよう見真似で誰もがやっておりました。

 

 

■ 降って沸いた

その頃に、降って沸いたような養鶏に遅ればせながら父が参入したのも分からなくはなかったのですが、既に値崩れも一部では始まっていたようでした。

しかし、今のようにネットが充実している時代ではありませんでしたので、その情報も後で知ることとなったのです。

 

■ 結局儲からず廃業

結局、損だけを残して、父は養鶏を廃業しました。始めるならもっと情報を得るのが早くなければならなかったといえます。しかし、父が最初にその話を知ったとしても、それを始めたかどうか。養鶏が儲かるという情報を元に賭けのような新しい事業開始に決断出来たかは、かなり怪しい。

 

従来からの農業をやって来た父には、その情報が活かせていれば儲かり、値崩れする頃には、さっさと廃業出来たでしょうか。

 

情報は、いち早く得ることが大切ですが、それを利用し、活かしたことが出来なければ、無用の長物どころか損をしかねません。それを使う人によって価値となるのか、そうでなくなるのかは結局その人次第でしょうから。

カバンに尺取虫がいた

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これにそっくり

画像出典:kurasi-no.jp

 

先日の朝、わたし一人が早く目が覚めたものの寒いので布団でゴロゴロしておりましたが、いよいよトイレに行きたいのを我慢できなくなり、所用を済ませた事を機に起床することにしました。

 

■ 朝食中に発見

自分で食パンを焼き、コーヒーを入れてテレビを見ながら朝食をしていました。ふと、テレビに前に置かれた娘の手提げカバンを見ますと、体長3-4㎝はあるかと思われる尺取虫が這っているのを発見しました。虫は、カバンを尺取りながら、ほぼ中央辺りに差し掛かっていると処でした。蛾の幼虫で害虫でもあるので、すぐさま、駆除しました。

 

しゃくとり-むし【尺取虫】の解説

シャクガの幼虫。細長い芋虫で、腹脚が二対しかないので、人が親指と人さし指で尺をとるような進み方をする。静止すると枯れ枝に似る。(Gooの辞典より)

 

■ 前日の行動

前日に、わたしたちは行動を共にしており、その時に彼女がそのカバンを持っておりました。しかし、そのような虫が付く自然の中に行ったことはありません。いくらその日の行動を思い返しても、スーパーを二軒はしごした以外には、想い当たりません。

 

一軒目は全国展開の超大手でしたが、虫がいるかも知れないと思われる場所(例えば、観葉植物とか野菜売り場)には近づくこともありませんでした。

 

いま一軒は、地元のスーパーの食品売り場に行きました。ここでは、野菜売り場をうろうろしましたので、可能性としてはここ以外は考え辛い。しかし、相当大柄な尺取虫なので、出荷の際に紛れ込んだとしても、食品売り場の陳列時には気が付くと思われ、結局のところ出どころ不明と結論に至りました。

 

■ わたしの小さい頃

わたしが小さい頃には、尺取虫などは日常茶飯事に見かけることがあり、いつの間にか、体についていることも珍しくもありませんでした。

 

ただ、こんな噂がその頃にはありました。

 

『尺取虫に全身を測られたら、その人は死ぬ』

 

というもので、わたしはそれをその頃にはまことしやかに信じておりました。それで、体に尺取虫が付いているのに気が付いた時には、既に幾らか体を測られたと思われ、その分のわたしの寿命が縮んだに違いないと落胆したものでありました。

 

今から思えば、滑稽な話ですが。