聖護院 京極のブログ

天と地の間に新しいことなし(ことわざ)・・・人間の行動は今も昔も変わってはいない

老後の資金の多額を残して他界する

画像出典:楽天カード

 

誰しもいつかは老人となる。

その時期は明確だから、その時に備えたお金の準備が必要であることは、誰でも理解している。が、実際にそうしている人は若い人ほど少なかろう。

 

人は意外に老いやすい。

余生に時間があるように見えても、着実で容赦なく近づいてくる。蟻とキリギリスではないが、若いうちに準備は少しずつでも整えて置くべきだ。

そのための方策は、やはり主たる稼ぎ意外の収入や投資であろう。

 

■老後の資金の多額を残して他界

ネットを見ていたらなるほどと思わせる動画があった。

 

それは、多くの老人が余生を過ごす内に他界しても、無一文の人は殆いなかったという統計があるとのことであった。

少なくとも500万円から1千万円の預金を残している人が殆どであったという。

確かに、自分が一体何歳まで生き延びるのかは神以外知る由もない。であってみれば、使い切って他界することができるなどと言うことはありえないのだ。無論、病気で余命がしれている場合はそうとも限らないだろうが、それでも健常者の場合とさして違いはしないだろう。

 

ハイブリッド車とガソリン車

画像出典:cobby

車を買う時、大抵の人が燃費が気になる。

そうなると、どうしてもガソリン車よりハイブリッド車に目がいく。実際にハイブリッド車の方が、例を挙げるならプリウスの場合12キロ/㍑程度よい。

 

12キロの差は大きい。だからハイブリッドの方が得だ。

と思い勝ちだが、これはちょっと短絡理解。

 

■ ハイブリッドとガソリン車の価格差

まず、ハイブリッドの本体価格は実質35万円から45万円ガソリン車より高い。幾ら値引きをして貰ってもこの差が埋まることはない。

仮に、ハイブリッド車とガソリン車が10万キロ同じように走ったとして、24.4万円ガソリン車よりハイブリッド車のほうがガソリン代が安く済むが、本体価格差を解消できない。これにはガソリン165円/㍑とし、車はプリウスハイブリッド車とガソリン車の燃費の差はカタログ値(joc燃費の平均値)で11.72㎞/㍑として計算。

 

10万キロ両車種を乗ると

ハイブリッド車は2880リットル使用。×165円/㍑約475.233円

ガソリン車は4349リットル使用。×165円/㍑約717.700円

差は約24.4万円

買った時の本体価格の差35-45万円は埋まらない。つまり、元がこの段階では取れない。

 

また、ハイブリッド車は5万キロ程度でハイブリッド用のバッテリーの交換が必要となる。少なくとも10万キロ以内でその時期はやって来る。その費用も10万円を超える。バッテリーは車を使用しなくても劣化するので交換は必要である。

 

勿論、ガソリン車にもバッテリー交換は必要だがハイブリッドのバッテリー程には費用はかからない。

『大気汚染やCO2削減に貢献しているだろ?』

うーんこれも一概に言えない。本体価格が高い分それはその分ガソリン車より多くの部品にコストがかかっているから。

 

その他、車検費用に関してはどちらも大差ない。

 

結局の処、ハイブリッドよりガソリン車の方がお得なのではないかと言えそうだ。

 

 

滑稽な戦争

画像出典:日経新聞

ウクライナ軍のミサイルがロシアのクリミアに通じる橋を攻撃して壊す。それをロシアが懸命に修復する。また、ウクライナ軍がこれを壊す。戦争とはいえ全く滑稽な話だ。

 

人間のやることは昔も今も少しも進歩がない。人間は「万物の霊長」などと威張っていても、実際はこんなにも滑稽すぎて情けなくなる。

 

戦争をするには理由は有ろうが、互いに大切な人の血と命が失われる。ウクライナが買ってもロシアが負けても本当に勝者など有り得るのだろうか。

カネを稼ぐ人はカネも使う

中古車販売の大手が炎上している。どこの中古車会社も、その辺は多少の違いはあっても大筋では経営方針に違いはない気がする。何故なら、そこまでしないと生き残れないし、大きくなれないから。

 

この業界の事は全くの門外漢だから、車の値段の妥当性や車検代の妥当性を検証しようがない。

 

しかしこのような社員を究極的に追い立てて働かせるやり方は、わたしのいる建築や不動産業界にも古くからある。

わたしも大阪で大手の不動産会社に一時期いた。

自社物件の住宅販売や外構工事、リニューアル工事など顧客へのアプローチは、かなり厳しく営業活動を強いられた。分譲地に見込み客を土日には連れて行かなければ、叱責されたり、夜に追客させられたりすることも、決して珍しくない。

 

契約に至れば無論報酬はそれなりにある、が一度無契約が続いたら朝礼で人の前に呼び出されて、叱責される。酷いものです。多くの同僚が首になったり自ら去って行った。その中でわたしも知る人も無い会社で孤軍奮闘した。

 

基本給の抜群の高さや、一件の成約での高額な報酬などに釣られて、辞める同僚と同じ位毎日新人が入って来る。要するに学歴は関係ない。会社の利益を出す営業が出来るならだれでも良いのである。

 

それは、ノルマがありノルマを果たせれば報酬ももらえた。短期にお金を稼いでさっさと辞める気であったから、頑張れた。しかし、稼いだおカネは日々の厳しいノルマの達成に夜の食事や飲み代にそっくり消えた。

一年も経った頃、わたしはこの会社で稼ぐことは出来ないと当ても無かったが辞めた。

親の人生が誠実なら子はグレたりはしない

 

画像出典:アエラドット

近所に父子家庭がある。母親は10年程前に他界している。

死因は癌だったが、小学生の女の子にはどんなにか無念な想いを残して旅立ったことだろう。

子は女子二人。今、二人は最近家から勤めに出るようになった。下の子は反抗期には一時期グレそうになって他家のことながら心配した。

 

しかし、父親が身を粉にして運送業で働いて育てて呉れた事を知らない筈はなかった。結局ほんの一時期でごく普通の子に戻った。親が誠実に一生懸命に働き育てて呉れるなら、子はそれが判るというものだから。

 

それに昔から言うではないか、

家貧しくして孝子顕る(いえまずしくして こうしあらわる)

*1

 

と。

*1:家が貧乏であると、子供も家計を助けて働かねばならず、そうした善行を通じて孝行な子が育つことをいう。

親は子にとことん馬鹿になれる

 

画像出典:マネックス

 

我が子に対しては、親は愚かになる事がある。思慮分別がある人でも、子の愚行に加担したり、弁明したり。世間から批判を浴び、罵られたりすることがたとえ分かっていたとしても、親は子に対して愚かである事が出来る。

 

何故ならその子の親なのだから。わたしは、こうした親を責めたくはない。明日は我が身かも知れないから。

 

だがその前に子の愚行を止められるのも親だ。

節約倹約で1億円、、、

 

一億円のレプリカ(一束100万円)
画像出典:Amazon

 

節約と倹約を重ねて1億円を貯めるに至った男性がネットに取り上げられていた。

努力の末にその巨額を貯めえた事は凄い。だが、この男性は恐らく、そのお金を使えないだろう。使うことは無いだろう。そして使わないままこれまで通りの節約倹約を通し続けるに違いない。

そしておそらく巨額を持ったままで生涯を終えるのではないか。

それはわたしならいかにもむなしい。がその男性にとっては、たのしみであり喜びでもあるだろう。お金を貯める事そのものが目的の人生なのだ。

 

おカネは大切だし、老後の苦境にも早くから対応して置く必要がある。けれどお金はまた使わなければ意味がない。お金があるという心の余裕は得ることが出来るが、使わなければないのも同然だから。

何時までもあると思うな。

 

画像出典:hanto

我が子は、結婚するまで親元で暮らしましたし、それは結婚相手も同じでした。一人住まいより、生活は効率的ですし、その分その気になればお金も残せます。親も子が家に20歳台までならいいとも思えるものです。

 

しかし、我が子が結婚しても頻繁に帰ってきたりするのは嬉しくもあり、心配でもあります。子にはいいたのですが言えない言葉があります。

「いつまでもあると思うな親と金」

 

山のあなたのなお遠く・・・

画像出典:YouTube 山のあなた


実家のある山間(やまあい)の村に高い山があります。そしてそれは当然に今もある。その山を村の人は「空山(そらやま)」と呼んでいました。命名の所以を知りませんが、恐らくは空に聳(そび)える村一番高い山であったからでありましょう。

わたしの家はその山の裾野を一部切り取った位置あって、前の畑に出て振り返ると、まるで覆い被さる様な山の威圧を感じます。

 

その山頂に登れば、どんな視界が広がっているだろうか?わたしは、中学生であった頃にそんな気持ちをいつも持ち続けていました。

 

山から見える遠くにはどんな人の生活があって、どれ程かの明るくて幸せな暮らしがあるのであろうか?わたしは、わたしのその頃の生活に辟易していて、そこに行けばきっといい生活があるのではないか。子供ながらにこの漠然とした叶う事のない思いに駆られていました。

 

母は、病気で入退院を繰り返しており、治療費や生活費の工面に父は苛立ち、祖母や子供にも当るということが、殆ど毎日のように続いていました。わたしは、父母の言い分が子供ながらの理解はしていましたが、どうすることも出来ません。ただ、一刻も早くその諍(いさか)いの日々から逃れたいとだけ念じ続けていました。

 

■ 秋の深い日に

秋が深まる11月のある日、その山に登ってみました。その季節にしたのは、落葉で見通しが効き、虫に悩まされることも無いと考えたからです。当時のわたしは中学生と若く、殆ど汗らしいものもかくことも無く、またほとんど休むことなく上っていきました。

頂上に達すると、わたしはすぐさま周りを見渡しました。

 

眼下にはわたしの住む村の一部だけが見え、蛇行した川とそれに沿った道が所々に見えました。頭をもたげると、その遠景には、幾つも山が無数に重なり合い、少し青味がかって遥かに見えています。そしてそれはそれ程には遠くないであろう距離にはすでにぼやけて、その上の空と一体の色合いとなり溶け合っているようでした。

 

それは、晴天にあったその日ですらそのようでしたので、それ以上の景色を別の日に臨むことも叶わいと思えた。それは、美しくはあったけれども、そこに「幸いが」「住む」とはとても思えなかったのでした。

 

わたしは裏切られた気持ちになってすぐさま下山しました。陽は西に傾いて少し肌寒さも感じる程でした。

 

ブッセの「山のあなたのなお遠く 幸い住むと人のいう、、、山のあなたのなおとおく、、、」

ただなんだか寂しかった。こみ上げる涙で口ずさんでいました。

父親と息子、お互いにどう思ってる?

 

画像出典:ナマニュアル


思い出の中に「父」の場面が実に少ない。それには理由があります。

男同士である父親と息子は互いに苦手相手であるものです。父親も息子への接し方に息子が成長するにつけて迷い苦慮するものです。そしてその結論として、互いに無関心である事でしか、平衡を保てないと知る訳です。

 

だからと言って父親と息子はお互いがどうなってもいいと思っている訳ではありません。家庭内においては気まずくとも、対外的には普通の父親であり息子にある事に変わりはありません。父親の事、息子の事を褒められたり、けなされたりすると、嬉しかったり相手を憎んだりもします。

 

要するに、父親にとって家庭に男は自身だけで良いと考えています。これはおそらく動物の雄としても当然の様に思います。母親が娘を実際には嫁がせてしまいたいと考えているのと同じ事でしょう。

 

わたしの妻が「女は皆敵よ」といみじくも言ったことがありました。つまりは娘に対する男親程には関心を持ちませんし、気遣いしません。どこかに醒めたところがあります。

 

依って、父親は息子を、母親は娘を家にいても少なからず胡散臭いと思うものであります。そうではないばあいは、父親は娘を母親は息子を溺愛しそうになる事もたしかなのですが。