聖護院 京極のブログ

天と地の間に新しいことなし(ことわざ)・・・人間の行動は今も昔も変わってはいない

仕事現場事務所での飲酒

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画像と記事とは全く関係がありません。ただし、現場事務所とサれるものは図のようなものです。    

画像出典:NEXCO西日本

 

飲酒をしてからの車の運転は今から二十五、六年前の建築現場事務所ではごく普通に行われていました。こう書くと、眉を潜める人もあるでしょうが、そういう人はごく僅かで、大抵の人は飲酒をして運転しないか、運転するなら車を使わない通勤であったのです。

 

その僅かな飲酒運転をする人を、特に非難するというでもなく、止めるということもありませんでした。それに、それによって事故を起こしたという話も一度も聞いたことはありませんでしたから。単に、悪運が強かっただけでしょうかね。

 

■ 建築現場事務所の冷蔵庫

大抵の建築現場事務所の冷蔵庫には、ビールや酒が及び氷がストックされていて、五時の就業時間が過ぎると、飲兵衛の社員がそそくさと冷蔵庫に近寄り、酒類の飲み物を持ち出すというようなことは、極普通でした。

 

それは、一般の会社のオフィースルームとは、全く違った世界でしたが、建築現場事務所に限らず土木現場事務所でも珍しいことではありません。圏外の遠いどこかの業者の工場に出向いた時は、地酒を買ってきて、皆にふるまったりするほどでした。

 

建築現場管理の仕事は、職人ではないものの肉体労働と言っても良いくらいに過酷でしたので、仕事が終え、職人が帰ってしまうと、飲酒に至らずにはいられなくなるのは理解できます。工事現場は閉めて、事務所で書類作りの時間に飲むわけです。残業時間です。残業も業務に違いはないのですが、大目に見られていました。

 

勿論、建築現場のすべての人が車通勤であった訳ではなかったし、車通勤の人すべてが飲酒をしていた訳でもありません。その頃には、飲酒運転は禁じられていましたが、今ほどうるさくは規制していませんでした、見て見ぬふりであったと思います。

 

 

■ 飲酒運転

電車での建築現場通勤では、業務終了後、残業となる場合に事務所内で景気づけに飲むことは今でもごく普通に行われていると思います。それは、職人が帰ってしまった後の現場事務所と長時間の残業がある特殊な環境では認められていいでしょう。

 

問題なのは、飲酒の後の車の運転です。仕事を終了して飲酒してから、帰るまで五、六時間は少なくともあるので、良いとしているのかも知れませんが、非常に危険に感じたものです。

 

わたしも長らく建築現場にいましたから、当初はわたしもビールを飲むこともありましたが、車での通勤時間が長く、危険も感じるようになって止めました。それに、家で家族と飲む方が上手いというものです。

 

さすがに現在では、建築・土木の現場事務所勤めで飲酒運転はしていないと思いますが、事務所での飲酒はしているでしょうね。電車通勤の人は。それを見て車通勤の人は、飲まずにいられないとなると、問題ではあります。

妻の歯ぎしり

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画像出典:黒沢歯科医院

「歯ぎしり」という言葉からは「怒り」と「残念無念」という悔しさを噛みしめて、事が終わってしまった時などに立てる音を想像してしまいますね。

 

『くそう!くそう!』

などと、およそ人にとって恨みつらみの感情が交錯するのであります。

たとえば、「歯軋りして悔しがる」

 

■ 妻の歯ぎしり

妻は、歯ぎしりを一晩で何度となくします。わたしが眠っている時は分からないけれど、たまたま目が覚めていた時などに、

「キリ、キリ」

と金属が激しく擦れ合う音で、それを聞くとぎょっとしてしまう。

 

■ 妻に何か不満があるの?

妻に何かとんでもなくストレスや不満があるのでしょうか。怖くて聞けないのです。どんなものであっても、物理的に歯が折れるのではないかと、そちらの方面にも気懸りですが、コーヒーを飲み過ぎたりしても出るようなので、原因は結局不明。

 

妻は一日に五杯くらいは飲むのですが、それが原因だったらほっとするけれど。

 

よく分からないけど、原因がわたしだったら本当に申し訳なく思う。

ベルマーク集め

お菓子や棒状のハムソーセージなどの包装紙に付けられているベルマークは、今も集め続けています。子供が義務教育から卒業すると、それを拠出する機会がなく、それでもいつかはと思い貯めています。

 

ベルマーク運動(ベルマークうんどう)は、学校をはじめとする教育施設公民館をはじめとする生涯学習施設の教育環境整備への助成と、交通などの面でハンデキャップのある山間・離島(いわゆるへき地)の学校特別支援学校院内学級や被災校、発展途上国の教育に対する援助を組み合わせて行われる運動である。朝日新聞社創立80周年記念事業として1960年昭和35年)に始まった。ベルの形は「国内外のお友達に“愛の鐘”を鳴り響かせよう!」との意味合いがある。しかしながら手作業による煩雑な仕分けや集計の作業が必要で非常に非効率なため多くの批判が生まれており廃止する学校も増えている。(Wikipedia

 

大よそ、それらをまとめると小学生の低学年の拳程度の嵩になります。勿論、押し縮めたらその半分以下になるかも知れません。しかし、柔らかい半透明のビニール袋に入れて特別に手を加えなければ、その程度になります。

 

■ いろいろな種類

しかし、ビニールの袋に印刷されているものは、ベルマークを切り抜くと巻紙のように自然にくるまってしまい、点数はいくらなのかを確認するのも苦労。半面紙の物は、分かりよい。我が家は主にビニールの物がたくさん集まるので、集計する人は大変だろうと思う。それで集めるのを辞める学校が増えてきても仕方ないのかも知れません。

 

昔のようにPTAの人が集まって集計するようなことも、今は一家を支える働き手であることが多く、思うに任せない事情もあるでしょう。どうすべきはわたしには思い浮かびませんが、何とか続けていけるようにしてほしいものです。

 

■ ネット

過日、ある中古品をネットで検索しておりましたら、ベルマークを大量に売りに出している人がいました。集めても歓迎されなくなったのでしょうか。

 

それでも、ベルマークが印刷されている包装紙をプラゴミに知らずに出していますと、妻がまたゴミ箱から拾い出して切り抜いておりました。立場が逆であってもわたしとて同じ事をしたでしょう。

 

■ なんでも効率

地道な運動や努力は、効率面からいうと確かに歓迎されません。しかし、そういう運動や努力は、効率化してはならないという気がします。段々世知辛くなる世ですが、良い運動は続けて行くべきであろうと、今日もインスタントラーメンの袋のベルマークを切り抜くことでしょう。

賞味期限など何のその

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画像出典:静岡県裾野市

 

賞味期限や消費期限が切れたものは、食べませんか。賞味期限がまじかになったものは買いませんか。

 賞味期限(しょうみきげん)とは、賞味期間の限界、すなわち賞味期間の最終日時である。 「賞味期間」とは、品質劣化が比較的遅い食料品を包装状態のまま所定の状況において、製造者が安全性や味・風味など全ての品質が維持されると保証する期間。 ... 賞味期限:「品質が変わらずにおいしく食べられる期限」おいしく食べることができる期限。(Wikipedia

 

■ 賞味期限の切れたもの

我が家は、両方とも否です。即ち消費期限が切れていても、それは

「新たな熟成期間に入った」

と訳の分からに言い訳で、平気で食べます。なお消費期限は、期限が賞味期限より短いくらいの話で、我が家では大して気にしていません。

 

勿論、食べる前に一見もすれば、匂いも嗅ぎます。見るからに無理なもの、匂いが著しくなくてもその物の特有の匂いから少し外れている時には、諦めます。

 

■ 賞味期限まじかのもの

 また、賞味期限がまじかな物は買いませんか。例えば、明日でその期限を迎えるような場合は、明日食べることが出来るかどうか分からない時には、普通の場合買うのを控えます。しかし、我が家はそういう時でも買います。

 

期限を三日以上過ぎたものでは、生ものは熟考の末に、食べるのか食べないのかの判断を下しますが、要は先に書いた通りで、状態を見てからになります。

 

■ インスタントコーヒー

量販店で多く見かける賞味期限が残り少ない、瓶入りのインスタントコーヒーなどでは、半値に近くにまでなっていることが多い。無論、目に付けば買います。インスタントコーヒーなど、賞味期限が二か月程度過ぎ去っていようとも、我が家の人間の舌では、そうでないものとの区別などつきません。

 

まったく問題はありません。

 

■ お腹が痛い時

時々、快調なお腹が調子が悪くなる時があります。その時の原因で思い当たる節は無いのかと自問した時、賞味期限を過ぎたものを食べることがよくある我が家では、思い当たる節が多い。そのため、まずはそれを疑うのですが、それを特定はできません。

 

まあ、火は通していただきますので、食中毒のようなことはあり得ませんが。

カエルの合唱が聞こえない

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画像出典:ことばバンク

 

近くの田のこしらえが例年になく遅れて、毎年来ていたマガモのつがいも、違う田に鞍替えして帰って来なくなりました。寂しく思っていたところ、暫くしてマガモらしい二羽の幼鳥が現れました。

 

二羽と仲良く水草をとっているのに喜んでいましたところ、何時しか姿が見えなくなり、暫くすると、一羽のマガモの雌が現れました。

 

この雌も、滞在したのは二日ほどで、姿を消し居つくマガモは居なくなってしまいました。そうこうするうちに、白いサギらしい鳥が入れ替わりに現れました。こちらは水草などは取らず、専らカエル狙いのようです。この数日の日中には、田の中にいますが、夕方には姿が見えず、どうやら通いなのかも知れません。

 

■ カエルの合唱

例年なら、カエルの合唱で夜、寝られないとの近所の奥様方の苦情も、今年は無く、我が家でもテレビを消して窓を開け、耳を澄ませても殆ど聞かれません。

 

カエルがいなくなったのでしょうか。それとも、カエルが孵(かえ)らなかったのかは定かではありませんが、その田にカエルがいないことは間違いなさそうです。

 

■ マガモのデザート

マガモ水草などの草類が主食ではありますが、カエルがいれば食べます。いわばマガモにとってカエルは人間でいうケーキのようなデザートにあたるようです。カエルはマガモやサギに食べられ尽したのでしょうか。

 

それとも、マガモやサギが怖くて息をひそめて暮らしているのでしょうか。一向に鳴き声が増えません。あのかまびすしい声も聞かれ無くなればなるで、寂しいものでありますが、実に勝手な言い分ではあります。

睡眠時無呼吸症候群か?

 

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画像出典:ライフル介護


若い時にはかかなかった「いびき」も歳を重ねる毎に出る頻度も高くなって来るのは、恐らくどの人にも当てはまることでしょう。

 

わたしのいびきも相当なもので、二階の寝室から階下の居間まで聞こえると家族は申しております。まさかとは思いますが、有り得ることかも知れないと思うことも最近は多い。

 

■ 睡眠時無呼吸症候群

睡眠時無呼吸症候群に当てはまるようないびきのかき方らしいとの家族の証言から、なるほどと思い当たる節もあります。例えば、八時間近く寝ているはずなのに、日中には眠たくなるのです。

 

恐らく十分な深さの睡眠がとれていない証拠で、睡眠時無呼吸症候群に顕著にみられる症状らしいのです、ネットで調べた範囲では。

 

わたしのそれは相当な歴史があり、一時には鼻のしきりに輪っかをはめると、症状が改善するとかいう商品がありました。早速買って付けてみたのですが、家族に言わせると状況は不変であったとか。

 

■ 牛になった気分

その左右の鼻の穴の仕切り部分に、輪っかを付けるのはどうも嫌でしたので、効果がなかったとの家族の言葉に半ば落胆し、半ば喜びました。

 

というのも、その輪っかをすると、何だか鼻輪を付けられた牛の気分になってよろしくないのです。牛も同じ気分でいるのであろうと思うと、牛に同情心も湧いた半面、何だか腹が立ってくるし、また、情けなくもなるのです。

 

それでそれっきりつけないまま何時しか、散逸してしまいました。

 

今日も、何も殆どしていないのに疲れた気分になり、早く寝て睡眠時無呼吸症候群の症状を出すことになりそうです。

ボーダレスになった小売業

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画像出典:ボーダレスファーム

本文と画像には何ら関係ありません

 

ひと昔は、小売店というのは一つの分野の製品を売っていましたが、今は異業種の分野へも参入するようになりました。

 

■ 例えば

ドラッグストアのチェーン店では、薬だけではなく食品類や酒類も扱うようになりましたし、逆に食品スーパーも医薬品を扱っているほか、コンビニでも医薬品を扱うようになりました。このように相互に相互の本来の販売範囲に参入して、いわばつぶし合いの様相になりつつあります。

 

潰しあいが不穏当なら、勝ち残りをかけている戦いと言えます。今後、例えば電気屋では生鮮食品を置かないとしても、スナック菓子や加工食品を置いたり、薬を扱ったりするようになると考えられます。

 

■ 消費者

消費者も、薬を買いに出てついでに食品が買えるなら面倒も減るというものですし、食品を買いに行って薬を買えるなら非常に都合が良いということになります。

 

しかし消費者には良いことは企業には辛いこととなります。

 

今後は、一つの量販店に行けば事足りるようになると、次に出てくるのは、やっぱり高級品の専門店ということになるでしょうか。要するに国民の所得が上がればそうなるでしょうが、そうならなかったら、ちょっと高級品のお菓子を一社が出せば、それより少し安い高級品を他社が出すという、お互いがジャブを出し合って、体力の消耗戦になりそうです。

 

■ 経済が良くなれば

日本の経済が新コロナウィルス収束によって良くなれば、入り乱れていた相互の業種参入は減り、本業回帰になるとともに、高級品の販売会社が台頭することになるでしょう。例えば、高級品の百貨店などの復活です。

 

経済が早く良くなって欲しいですね。

 

手に職も悪くない

 

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画像出典:Amazon

 

今でも、学歴主義は幅を利かせていますが、社会に出て働き始めると学歴が左程役に立たない事が解ると思います。それは、一流大学に受験する人も、また、卒業する人も非常に多数に上るのですから、それらの人の総てが数少ない会社の役職に就けるわけではないのは誰にでもわかって来るからです。

 

むしろ、大多数の人がいわば平社員かその一つか二つ上の役職について、その後は殆ど変わりない位置で定年に至ると言ってもいいでしょう。一つか二つ上の役職と言うのは毎年入って来る新入社員やその少し早めの入社の社員を指導する立場上必要な地位で、ここまでは、大抵の人が努力で到達可能です。

 

しかし、それ以上は実に狭き門となります。何しろ、社内から優秀な人材を育て上げるような事をしなくても、どこかの会社から引き抜いて来れさえすれば、用は事足りるのです。

 

この事実を知ると、大抵の一流大学の出身者も、熾烈な仕事の成果を上げて地位を上げて行こうという気概のある人は、限られてきます。

 

『オレ、そこまでして出世しなくてもいいや』

『オレも』

と思ってしまうわけです。娘の会社は未上場ながら大手の外資系の会社です。同期生である日本屈指の私学の出身者らが、そのように言っていると、その不甲斐なさを嘆いておりました。

 

■ 確かに

確かにそのようにあくせくして、出世をしなくても、生涯に渡って今のまま食っていけるならそれでもいいと考えてもおかしくはないでしょう。福利厚生は整っており、土日や祭日は必ず休みで、しかも残業は厳しく規制されていますし、休暇取得も義務付けられています。

 

そのような恵まれた労働環境に居れば、そのように考えてもおかしくはありません。

 

昭和のような、過労で自殺するというようなことは殆ど考えられません。それは、わたしの目からでも、”いい会社”であります。

 

■ しかし

しかし、平凡な一会社員として生涯に渡って今の会社に務められたらの話であって、会社が今後50年以上に渡り、平穏無事に存続するのかどうかは誰にも分りません。会社の経営者、株主にも分かりません。おそらくは、会社が窮地に立たされることが一度ならずともあるに違いありません。

 

その時、自身が会社に必要な人材であると自信があるでしょうか?妻子がいて、転職を余儀なくされることにはならないでしょうか?

 

■ 昭和

昭和の時代は、過激な競争社会で会社の役職も生え抜きを抜擢するのが一般的でした。会社も成長盛りであり、人手不足も深刻でした。従って、人材がおらず、出世も会社の業容拡大と共に十分に有り得えたのです。

 

しかし、今は人材にもグローバル化が進んで、日本国内の優秀な人を引き抜いて、課長とか部長に抜擢することもあれば、社長を海外から招聘するなどと言うことも極普通に行われるようになりました。

 

■ 出世より

それが日本のサラリーマンにも知れ渡ると、出世などどうでもいいという考えが、広まっても仕方ありません。

 

■ 手に職も悪くはない

一流大学を出なくても、専門の各種学校のように、理髪、料理、美容、不動産資格などの資格が取るなら、そういう職も悪くないなと最近は思います。資格と実務経験があればどこに行っても雇って貰えますし、自分で事業を始めることも出来ます。

 

生まれた土地を離れずに、勤め結婚し暮らすことも出来ます。

 

この頃、そのように思えてくるようになりました。良い大学でなくとも、手に職があればいいと。

カレンダーの白紙の裏

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画像出典:Pixia

 

家の壁に吊るしてある月ごとのカレンダーをめくり取ったら、その紙をどのように処分していますか。当然のように新聞や雑誌と同じように古紙として、出そうとするのが当たり前でしょうね。

 

しかし、わたしはその裏が真っ白である場合には、そうはしたくないのです。裏返して、折って四等分にして分割するとメモとしたり、絵を描いたりできるからです。まあ何ともみみっち話ではあるのです。

 

しかし、子供の頃、貧乏であった頃には新聞紙の広告の裏を計算用紙にしたり、絵を描いたりした記憶が頭の中に、ドンと胡坐をかいていて、

『おい、それを捨てるのか。裏が白かったら使えるだろうが』

と、心のどこかでささやくのです。とはいっても、わたしは精神病ではありません。そういう記憶が蘇って、

『捨てるのが、勿体ないな』

と思ってしまう。

 

「勿体ないは卑しいからだ」という言葉もあります。確かに卑しくはあるのでしょうね。しかし、それを捨てるとなると、どうしても心が痛むのです。多分、こんな人は多くはないでしょう。

 

■ 娘

わたしの娘は、そのようなことをしろと言ってもしません。メモはメモ帳にするもの、メモ用紙として売られているものを使うものと決めています。そのメモ用紙もほんの少し使っただけで、厭になり次々と目移りして新しいものを知らぬうちに購入しています。

 

わたしは気が付くとわたしの思いで指摘はしますが、娘に強要はしません。今の時代には今の時代の生活スタイルがあると思うから。しかし、無造作にメモ帳から破って捨てるのを見ることはやっぱり心が痛む。

 

■ 公設市場

わたしの思い出の中には、京都市内で未だ公設市場が残っていた頃の残像があります。その、古ぼけた建屋の市場には、雑多な職種の店が連なっていました。それぞれが、簡素な仕切りで仕切られて、僅かな売り場の中で、声を上げ懸命に客を呼んでいたのを、昨日の事のように思い出すことができます。

 

そこには薄暗い店先に立って、日々の商売にどこか疲れた顔がありました。そして、天井辺りから下がっている竹かごの中に、売り上げの小銭や紙幣が無造作に詰め込まれていました。そして、客が支払ったり、釣銭を返す時にはゴムひもで吊るした籠を引き寄せて、受け渡しをするのを、わたしは商売の原点であると思ったものです。

 

そして、買い物をすると、新聞紙や色刷りの広告に包んで、輪ゴムで止めた商品を返してくれたりしたものです。新聞紙と言う読み終わった紙を又、商売に利用するという、また、メモにも広告の無地の裏面を計算用紙代わりに利用して、、、

わたしはただただ、その商売の逞しさにも心打たれた。

 

そのような商売をしている人は、露天商の人以外には殆ど見かけませんが、見かけるときがあったら、何だかとても親近感が湧いて来てしまうのは、再利用する姿に共感できるからです。

才能なのか唯の物好きなのか

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画像出典:タウンワーク

 



「好きこそものの上手なれ」とかいう言葉があります。好きであると自然と上達して上手くなるということでしょう。しかし、それは好きなことを夢中になった結果上達しはしたが、それが才能であるのかと言うと、ちょっと分からなくなります。

 

■ 才能は

才能は、好きから始まることの過程で発現してくるものであろかと思います。好きで始めても、それが好きのままであり続けるか人はたくさんいます。しかしそれが、昂じて新しいものを開発するとか発明に至るとかに至ると、それは才能と言えるのかも知れません。

 

才能は、好きで始めたことが原点で誰にでもその芽はあると思うのですが、好きのその更に一歩を突き破り、独自の視点を持ってそれを突き詰めて進むことにより、運良ければ発現するものでしょう。その行くその先は、なかなか困難が待っています。思考錯誤を繰り返りながら、へこたれずに努力し続けて行くしか開花しないからでしょうか。

 

それが出来る人に、才能は開花します。

 

■ 兄

兄は中学校に入った時から、電気の事が好きでよく勉強もし、理解もしていろいろな実験を開けても暮れてもやっておりました。従って、就職もその関係から工場勤めを選び繊維機械の制御関係の仕事につきました。わたしは兄に多大な期待を抱いておりましたが、そのような気配もないまま、定年まで職場を変わることなく勤め上げました。

 

 

■ 弟

弟は、機械が好きで単車の修理とか、壊れた機械を復活させるような器用なところがあり、その道に就職しましたが、三年程度で辞めて、機械メンテナンスの自営業を営んでします。

 

二人とも、好きな道に進みましたが才能が開花したことはありません。その道で食っていけるのならそれが才能ではないかという指摘もあるでしょう。それも間違ってはいませんが、今少し上を目指して欲しい気がしたのです。

 

 

■ わたし

一方わたしは、二人の学校から帰った後の好きな事への没頭を、半ば呆れ半ば羨らましかった。わたしは、二人を横目に本ばかり読んでいたことが多かった。特にしたいことも興味湧かず、唯ぼんやりとして時を過ごしていただけでした。

 

就職もしたいという会社もなく、どこでもよかったけれど女の子の沢山いるところがいいといつも思っていて、就職情報で特に最優先に選んで、実際に就職できた時はうれしかった。それだけで、特にそれによってよかったこともありません。