聖護院 京極のブログ

天と地の間に新しいことなし(ことわざ)・・・人間の行動は今も昔も変わってはいない

宮本むさくるしい

 

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画像出典:Wikipedia


わたし達の中学生の頃は、剣豪宮本武蔵の事を

「宮本むさくるしい」

といい、

佐々木小次郎

「佐々木こじき

と揶揄しておりました。何気なしにではありますが。他にもこれも剣豪の荒木又右エ門は「荒木またずれ」などと。それで、またそれが仲間受けがよかった。本当におこがましい揶揄であったと思います。

 

■ 宮本むさくるしい

宮本むさくるしいこと宮本武蔵は生涯に60回以上も戦いをして、一度も負けたことがないと言われています。彼は、勝つためにはあらゆるものを利用し、手段を選ばなかったといいます。

それゆえ

「卑怯者」

と罵られてきました。確かに彼は剣士としては落第であったのかも知れませんが、自分が乱世に生き抜くためにの兵法家としての成果としてはずば抜けて優れています。

乱世の時代には、どんな手段でも用いなくては叶わなかったからでしょう。武蔵には強力な援護者も莫大な財産があった訳ではないのですから。

 

彼は剣士ではなくすぐれた兵法家であったと言えます。誰かの元で、いくさの指揮を執らせたら連戦連勝したことでしょう。

 

あの時代の個人であれば、誰からそしりを受けようとも頼れるのは己のみであり、生きるためにはあらゆる手段を用いるのも致し方ありません。おめおめとは死にたくないのなら。

 

それは、今の世のように、民主主義の時代でも平和な時代でもなかったのであれば、たとえわたしがその時代に生きていても同じ事をして生き抜こうと試みたでありましょう。

まさに、

「卑怯者ではない。己(おまえ)が未熟なだけだ」

となるのでしょう。

 今の時代でも、どんな手段であっても勝ちさえすればよいというのは忌み嫌われるでしょうが、しかし、武蔵のこの考え方はわたしは嫌いではない。

お金は天下の回りもの

 

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画像出典:失念しました

会話に、
『ああ、あのお金は使って無くなったよ。いつまでもあると思う方がおかしい』

などと言います。しかし、単なる言い草であって、正しくは

『あのお金は、わたしの手から、他人の手に移った』

というべきでしょう。お金は何かを買ったからといって、この世から消えてしまう訳ではありません。

 

■ 正しい言葉

つまり、

「お金は天下の周りもの」

という表現は、当を得ていて実にお金の性格を正しく表した言葉だと言えます。

 

お金を使ったら、そのお金は誰かの手に渡り、そのお金がまた誰かに渡りそこに、利ザヤや付加価値が付いたものの取引なら、金額は膨れお金の回りは拡大していくものです。これがGDPの拡大です。

例えば、桃の生産者は種を買い、労力をかけて育て、付加価値として一個の値段を付けるそれを販売者に売る、販売者はそれに販売に係る労力と利益を付加して売る、そして消費者に渡る訳ですね。

その間に、お金は人手に次々と渡り、最後に消費者にたどり着く、消費者は会社からの給与でそれを支払う。

 

要するにグルグルとお金は、世の中を回り回っています。

 

■ 使われないお金はないのと同じ

もし、給与なり、売り上げの利益なりを不確実な将来のために、貯金に回そうと考える人が多ければ、その貯金となったお金は、死に銭というか使われないお金で、世の中を回りません。付加価値の大きいものへの出費をしません。

 

今日のようなデフレでは、人は気前よく使うことにためらいがあります。それは、誰でも同じですが、お金が回らない、貯金に回るとは結局物を買うことを控える、消費を控えることになるだけです。少しでも安いものを求めます。

 

日本に、個人の資産が何百兆円とあったところで、使わなければ結局全体の生活がデフレに進んで見すぼらしくなるに決まっています。使わないお金はないのと同じなのです。

 

■ 日本人がドンドン貧しくなる

日本人が、年々貧しくなるのは、デフレ経済であるからです。ら旋階段のように、日本人の生活質はドンドンと低下して行っています。企業はバイト使い、正社員を減らし、収益を上げるのに懸命です。それは仕方のないことかも知れません。

 

企業も、デフレ下で他の企業との競争に勝たねばなりません。いかにコストを切るかが命運を握ると言ってもいいわけです。そのためには、一番のコストのかかる人員を、質が低下しようが、押さえるしかありません。

 

■ 財務省

結局、誰が悪いのか?

それは、日本の財務省です。ここがこの日本人の貧民化を主導してきました。即ち、財政の健全化の至上主義です。財政健全化とは、お手本のドイツのように収入に見合うだけの出費をして、財政の収支を均衡させようとする計画です。一見ただしい。しかし、デフレ期に行う政策ではありません。

 

景気が過熱しているインフレ期にはそれも良いことでしょう。しかし、日本のバブルがはじけてデフレが始まってもこれを行えば、去年より今年、今年より来年という風に、財政のパイがどんどんと小さくなり、デフレは深化していきます。

 

家族を一人の稼ぎで支えきれなくなったお父さん。

国民がどんどん貧しくなること、父親の権威がデフレで収入が落ちたことで同様に失墜したとわたしは悔やむ。お父さんの給料では家族が食っていけなくなってしまったのです。

 

若い人の給料が、上がらない限り日本の将来は衰退するばかりです。

 

■ 政府

これを、どうにか出来るのは政府しかありません。

政府には、経済の積極財政の専門家が行政トップにつき財務省を指導するようにならなければ、財務省の言いくるめられるだけの政治家だけになります。

今こそ企業がサラリーマンの給与を上げたら、法人税を減免するとか、その他の優遇処置を与えるとかして、何としても若い人の給料を上げて欲しい。

 

 

満天の星空と蛍狩り

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画像出典:じゃらん

 

家族で遠出をする機会がありました。8月に入ってからの事です。道が混むのを恐れて、早めに出発としました。早めといっても午前3時前の事でした。夜が明けるには、少し間があります。

 

■ 田舎道

田舎道に差し掛かったのは40分くらいした頃でしたでしょうか。

娘が、助手席から空を見上げて、

『わあ、星がきれい』

と歓声を上げました。こういう田舎ならさも有りなんとわたしは思い、車を停めることもなく走り続けました。娘は、満天の夜空を知らない。

『お父さんが子供の頃の夏の空は、まるで星が降ってくるように綺麗だった』

とわたしはいい、そのまま子供の頃を思い返していました。

 

■ 蛍狩り

子供の頃のわたしたちには、これといって娯楽がある訳でもありません。薄暗い裸電球の下であまりにも映りが悪いテレビに閉口して、夜には蛍狩りをすることも多かった。

外に出ると空には、満天が広がり無数の星が煌めいています。それを見上げていますと、何か吸い込まれていく錯覚に陥るのでした。

 

村道に出ると、

『ホーホーホタル来い。そっちの水は苦いぞ、こっちの水は甘いぞ』

と口々に叫びながら無心に、菜種の取り柄を竹に括り付けて、振り回します。未舗装の道が仄かに白じんで、白い大蛇のように曲がりくねって続いています。道の縁から広がる空間は、濃厚な深い黒みがかった田が広がっています。

 

その上を、蛍は黄色い尾灯を点滅させながら飛び交っています。それは実に夥しい数であり、幻想的でありました。わたしの足元の道にもたゆたいながら飛んで来たホタルを、すかさずに捕らえるのです。

 

捕り集めたホタルをどうしようという訳でもありません。

夜が明けるまでの、ほんの心の慰めに過ぎません。夜が明ければ草叢にそっと返して置くのが常でした。ほんのわずかしかない命を、慰めのためにいつまでも囲うことを良しとしなかったのかも知れません。

 

■ 今でも

今でも、わたしの故郷の夏の夜空はわたしの子供の頃と違わず綺麗でありましょう。そして今でも、蛍が飛び交っているでしょうか。

 

水素利用の自動車

 

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画像出典:JHFC

CO2削減に向けて、事実上無公害の自動車エンジンが開発されつつあります。それが、水素を利用したエンジンです。

 

■ 種類は二つ

  1. 水素を利用したエンジンには2種類あります。水素を利用して発電するエンジンでいわば水素発電自動車。燃料電池車といいます。
  2. 水素そのものをガソリンの代わりにエンジンで燃焼させて走る水素エンジン自動車

 

1. 

従来のエンジンのように内燃機関を持ちません。水素で発電した電気をバッテリーに貯め、その電気でモーターで回して車を走らせます。モーターだけで走りますので、車から今の車のような騒音やCO2などの有害物質は出ません。出るのは、水のみです。

 

モーター音が「キュル、キュル」として、忍者のように歩行者の背後に近づいてきます。いわば、現在のハイブリッド車が、モーターだけで動き出す時のような少し不気味な感じがします。

従って、このタイプが今後社会に広く採用されるなら、静かな社会であると同時に、何らかの作られた音を自動車が出す仕組みが必要で、実際にその音の研究もなされています。課題もあります。

 

2.

このタイプはいま使っているガソリン車が、ガソリンではなく水素を使う点だけが違います。従って、今の車と同じようにエンジン音がして、逆にいえばいかにも車らしいのです。

今の車はガソリンを気化させてエンジンで燃焼させて動力を得ます。水素エンジンは、そのガソリンの気化の代わりに既に気化した水素を送り込みます。それだけの違いです。

 

水素は、取り扱いにくいし、金属も侵しますので、今のままのエンジンでは使えないものの、それを除くと、殆ど変わりません。音もガソリンエンジンと同じように出ます。まあ、トヨタ自動車ではすでに、水素エンジンを開発して、レースに出たりしています。課題もあります。

 

 

■ 筆者は

筆者のわたしは、2.の水素エンジンになればいいなと思っています。やっぱり、坂道では苦しそうな音を出したり、高速ですと快適な音も聞こえたりする方がいいなと思うのです。

現在は、その他にも電気自動車があります。これはバッテリーの電気で走る車で、一部生産されて利用されていますが、バッテリーの容量と充電時間に課題が残っています。

バッテリーの容量は現在新車ならガソリン自動車のように500㌔くらいは走れますが、次第に劣化して来て、そう長くは走れなくなりますし、充電も時間がかかりながらも、フルに充電ができないことも欠点です。

 

電気自動車の充電が日本中で平日に行われるとなると、電力不足にもなりかねません。

 

という訳で、ガソリンや軽油以外の新しい動力源で走る車は、今は過渡期にあってまだ海の物とも山の物ともつきません。しばらくは、わがガソリン車が主流であろうかと思います。

 

 

なぜ半島一周のドライブをしたくなるのか

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画像出典:Googlemap


登山好きが、登山に魅せられるのは、何故なのでしょうか。

とはいってもわたしは、その愛好家ではありませんが、兄はそうでした。登るのは夏山に限られていましたが、会社の長期の休暇の多くをそれに費やすことが多く、お盆に帰省することも殆どありませんでした。登山の魅力について、しかし兄に尋ねたことはついぞありません。興味がなかったから。

 

■ なぜ山に登るのか

「なぜ山に登るのか」と言う問いがあり、

「そこに山が有るかだ」

という返しは定番でしょうか。

 

確かに高い山が有れば登りたくなる気持ちは分からないではない。しかし、日本アルプスの様な山ならともかく、草木や蔓、笹の生い茂る山にそれ程の魅力はわたしには感じない。

『なぜ山を下るのか』

という問いがあるなら、

『登ったら下るしかないからだ』

という返しなら、理にかなっているが、聞く方も応える方も馬鹿馬鹿しい。

 

まあ、山に登りたくなるには格段の理由はないのです。

 

 

■ なぜ半島を一周するのか

山に登るのは好きではない。しかし、半島一周をドライブすることは嫌いではありません。積極的にいえば大好きです。

なぜ半島を一周したくなるのか、と言えば、やっぱり「なぜ山に登るのか」とさして違いはありません。ドライブする人は、半島一周に限らず、どこかを一周してくることが好きなのです。来た道を引き返したくはないのかも知れない。

 

 そして、その半島一周ドライブコースの候補には例えば、近畿地方なら、丹後半島と言う日本海側の大きな半島があり、南には紀伊半島があります。

ドライブするとなると、良い天気であれば、この半島を回りたくなる。

 

■ 半島とは

ところで半島の定義は、三方が海に囲まれている突き出た陸地。と言うことになります。紀伊半島を半島として除外すれば、近畿地方は約2/3分しか半島でない部分とならない。紀伊半島は半島としては大きすぎる、といえます。

ここを気まぐれにドライブとなると、一日では非常に疲れる。無理しなくては一周出来ない。時間がある学生なら、ヒッチハイクでも、バイクでもちょうどよいだろう。

 

 

そう考えると、京都府下の丹後半島日本海側にあるが、丁度手ごろだろう。

半導体不足 中古車に及ぶ

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画像出典:ダイヤモンド

 

世界中が半導体不足に陥っていて、自動車業界もその例外ではありません。新車の需要はあるのに、半導体が不足していて生産調整を余儀なくされているのです。価格が高騰する訳ではありませんが、納車までに時間がかかるようです。

 

別に新車を買う程の余裕がないので、それにわたしが困ることはありません。

 

■ 我家の車

我家の車は2004年製です。現在が2021年ですから凡そ17年がたっています。見た目にも美しくない思いっきりの中古車です。すでにライトにはいつの間にか亀裂が入っており、表面のコーティングもあちこちが剥げて、黄土色に近く曇りつつあります。

 

今年7月に車検を受けた際には、見積もりでライトの照度が足りない場合は、ライト磨きをしなければならないかも知れないと警告されましたが、ギリギリのところで事なきを得ました。つまり、何とか車検を通過できました。

しかし、2年後は通らないかも知れないと案じております。

 

■ 買い替え

今の車から、またしても中古車への乗り換えを計画してはおりますが、我家においては半導体ではなく先立つ物が不足しており、計画は先延ばしの連続です。

 

しかも、自動車メーカーの半導体不足は、中古車市場の価格にも反映して来て、中古車価格がやや値上がりか、値崩れがしない状況にあり、我家の新中古車購入の計画は更に遠のくしかありません。また、中古車業界も在庫不足気味で、選ぶにもその幅が広くありません。

 

半導体不足の影響が我家にも波及するとは夢にも思いませんでした。

 

半導体不足の解消は少なくとも2023年以降でしょうか。

物忘れー度忘れかボケか

 

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画像出典:RIFLE介護


認知症は年々増加傾向にあり、2025年には65歳以上の人で5人に1人と予測されています。そしてその病気に妻やわたしが掛からないとも限りません。わたしの弟の妻の弟は40歳代初めに若年認知症となりました。

 

また、妻のトールペイントの友人の夫の母は、75歳で認知症を発症し、介護の老人ホームに入所しています。夫の事も、わが子の事も総て忘れてしまっているそうです。月に一度見舞いに行っても、どこの誰が来てくれたかが認知出来ません。

 

■ 夫は死去

この認知症の義母は、しかし夫や実子を忘れてしまいましたが、それはそれで良いのかも知れません。実子やその妻が来てくれないと不満を漏らすことも、どうして夫や実子が暮らしているのか心配する必要がありませんから。

 

『お見舞いに行っても、怪訝な顔をされるのでつまらない』

と妻のトールペイントの友人は言います。

『元気なんでしょう?』

と聞くと、

『元気で食欲もあり、明るく毎日をくらしていますよ』

と友人。

 

既に義母の夫は一昨年に肺炎で死去しましたが、それを言っても分からないので告知していないのだそうです。

 

■ ド忘れとボケ

ド忘れは、一時的な記憶の回復の遅れで、

「覚えてはいるが、思い出せない」

状態で、ヒントを与えられたら思い出すことが出来る他、時間が経ってから、自然と思い出すことが出来る状態です。最近のわたしかな。

わたしの場合、暫くして思い出せます。記憶の巻き戻しが、若い頃は5倍速位が可能でしたが、今は0.1倍速くらいにがくんと落ちていますが、記憶自体は鮮明です。初期のCDなどの記憶媒体と変わりません。

 

認知症という病気である「ボケ」は、記憶そのものが欠け落ちてしまっており、記憶の巻き戻し自体が不可の状態です。体験したはずの事がすっぽりと抜け落ちて、体験がしなかったことになってしまった状態の事です。

 

妻のトールペイントの友人の義母も、まさしく子や夫の記憶が欠け落ちています。もっとも親しい者の記憶が無くなるとはなんと悲しいことでしょう。

 

しかし、

予防は難しいようですね。

 

■ 参考記事

Yahoo!の記事ですが、時間が経つとアクセスが出来なくなる可能性が高いので、ご注意くださいね。

 

“物忘れ”と認知症はどう違うのか―病気に気付くポイントは?(Medical Note) - Yahoo!ニュース

 

 

パンのみに生きるに非ず

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画像出典:食パン工房

 

「人はパンのみに生きるにあらず」とは、聖書(『新約聖書』マタイ伝・第四章)に出てくるイエス・キリストの言葉で「人間が生きていくためには、物質的満足だけでなく精神的満足・充実も大切である」という意味だそうです。

 

■ パンの日

わたしの住まいの周りには多くのスーパーがあって、パンが安い日が持ち回りのようにあります。

先日、買い物に出た時、ある成年女性の親子が

『次は、○〇に行こ。パンの日、パンが安い』

と申しておりました。

 

従って、その親子のそこでの買い物にはパンは含まれておらず、一方わたし達の買い物籠を覗き込みますと、少し高い目の六つ切り入りのパンのパックが2つ。互いに顔を見合わせます。と妻が

『今日は、○〇でパンが安いのかー』

といい、わたしにそこへ行かないかと言いたそうでした。

○〇というスーパーは、車で今いるスーパーから5分と少しの距離にあります。行ってもいいのですが、、、でも少し面倒臭い。

 

■ 安いと言っても

パンが安いと言っても、刮目する程の差がある訳ではないのです。精々150円から多くて200円の違いでしょうか。確かに、150円とか200円は「チリも積もれば山となる」かも知れませんが、実際問題この金額は最大幅であって、必ずしも〇〇スーパーのパンの価格がそこにまで到達した値段であるかは怪しい。

 

■ 無類のパン好き

妻と子は、無類のパン好きです。わたしも、それに最近は感化されてはいますが、妻や子ほどではありません。

 

妻は、どこそこのパン屋さんは美味しいという情報を実姉や友人、テレビ、地域新聞などで想像以上に仕入れており、その情報量は侮れません。確かに、外出の折に寄り道までして買って来たパンは美味しいものが多い。

「好きこそものの上手なれ」とはこのことでしょうか。

 

■ パンが安い○〇スーパー

しかし、結局わたしたちは、パンの安い○〇スーパーへは行きませんでした。長い買い物に付き合いくたびれていたからです。

『人は、パンのみに生きるに非ず』

とわたしが言いますと妻は怪訝な顔をして

『何それ?』

と憮然とした表情。ここにツッコミが欲しかったのですが。

新聞の購読中止

 

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画像出典:NHK

 

わたしの住まいの周りには、多くのスーパーがひしめくように存在していて、すべての店舗が何かしらの特売日を設けています。

 

■ チラシ

2年程前に新聞の購読を辞めました。理由は、殆ど見ないからです。新聞記事もネットの記事の真新しさには遠く及ばず、古い情報程意味のないものもありませんから。もし、地元京都とその周辺限定の詳しい情報の新聞があれば考えてもいいのですが。

 

ただ、それでもそれまでとっていたのは、妻が新聞に入るチラシを見ているからだけの事でした。

 

妻も、新聞記事を殆ど読みませんでした。ただ、テレビ番組と地元である京都の記事だけは目を通していたようです。新聞に入るチラシには、不動産、習い事、祭儀、衣装、買い物など様々な業種に渡ります。

 

中でも妻が見るのは、その日に入るスーパーの安売りの情報で、テレビ番組表を見た後は、この情報のチラシに黒マジックペンを持って、

『これはここが15円安い』

とか

『これは安売りとしているけど、あそこのスーパーは普通にその値段で売ってる』

などと、ブツブツ言いながら、これぞ購入すべしというものに印をつけています。

 

■ 新聞購読中止後

しかし、世知辛いご時世でもあり、我が家の財政もひっ迫しており、いろいろな支払項目を検討し、統廃合を行うこととした結果、新聞は購読中止となったのです。

 

その後は、パソコンでのチラシで特売店や特売品を見ることとなりました。最初は小言が絶えない妻でしたが、今ではごく普通に見ております。

余りの熱心さに驚いて開いているパソコンを覗いて見たら、パイ取りゲームに嵌まっているところでした。

 

■ メニューありきではない買い物

我家はこのように、特売品と欠品となっているものを買うので、メニューを決めて買い物をする訳ではありません。特売品を前にどんな献立をするのかは、本人ですら分からないのです。

ですから、

『今夜は何を作るの?』

と聞いても無駄なのです。

男色(だんしょく)について

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画像出典:Amazon

 

男色(だんしょく又はなんしょく)は男性の同性愛者の事です。が、幸いと言うべきでしょう、わたしは該当しません。しかし、有名作家がある特殊な環境にあった時、一度その可能性を試みても良いような事があったとそのエッセイで告白しています。

 

しかし、わたしはそのような窮地に陥ってその可能性を感じるというよう経験はありませんし、どんなに女っぽい男性であってもその気にはなりません。女性の方がいい。

 

■ 男色は文化

百科事典マイペディアに依りますと、

男子の同性愛。〈だんしょく〉ともいい,衆道(しゅどう),若道(にゃくどう),野道とも。日本では仏教渡来以後女犯を禁じられた僧院で始まったらしく,室町以後稚児(ちご)(喝食(かつしき))を愛する風が盛んとなり,戦国以降は尚武の気風から少年武士が男色の対象となった。江戸前期にも男色は流行し,若衆(わかしゅ)歌舞伎の発展に伴って陰間(かげま)も現れた。男色・鶏姦(けいかん)を意味するpederastyはギリシア語に起源するが,西洋でもソクラテスとアルキビアデスの関係や,カエサル,ネロらは常習者だったといわれ,ベルレーヌとランボーの間もよく知られる。

とあります。有名なところでは、信長や家康や芭蕉と言ったところでしょうか。正確には分かりませんが。

まあ、公然と行われていたようで、今よりずっと江戸時代やその前の時代には奔放だったようです。

 

■ 良さは理解しがたい

男が男を好きになることはあります。いわゆる男気(おとこぎ)に惚れる場合です。しかし、これは性的対称としたものではありません。従って、わたしは理解できないのです。

 

■ 友人の告白

わたしとある友人が大阪の南のバーで飲んでおりました。今から30年くらい前であったでしょうか。友人は、カウンターの中に美女を見つけてしきりに口説きますが、相手に軽くあしらわれてしました。

その内に酔いも回り、帰りの電車の時間も残されていないので、わたしは切り上げたくなりました。

 

『そろそろ、かえろか?』

と切り出しました。友人は、陽に焼け更にアルコールで赤くして赤銅色の顔を上げて、充血した目で恨めしそうにわたしを見ました。

『うん。けどなあ』

友人は、飲み足りないというそぶりでしたが、普段よりそれ程アルコールに強くありません。彼の目論見は勿論、カウンターの中の美女にありました。友人は、言葉とは裏腹に、横目を美女に寄せて、一方の目でわたしに軽く目くばせをしました。

 

「そうか、これからまだ口説くんだな」

とわたしは察して、

『ご武運を』

と笑いながら席を立ちました。友人はにやりと笑って返しました。

 

■ その後

彼とは数日後に仕事で顔を合わせました。

わたしは、すかさずあの夜のその後の顛末について、さも気無げに聞きました。その方が言いやすいだろうと思ったから。

 

『あれな。男やった』

『え、お ・と ・こ?』

『いざことを運ぼうという段になって初めて分かったんや』

わたしは、絶句しました。掛ける言葉もありません。

『へえ、へえ~』

二の句が継げません。が、興味がそれに打ち勝ちました。

『それで、どうしたん?』

 

彼は、にやりと笑って答えませんでした。今はやりの「二刀流」だったのかは聞かず仕舞いでした。