聖護院 京極のブログ

天と地の間に新しいことなし(ことわざ)・・・人間の行動は今も昔も変わってはいない

今より一段下げた生活をする

 

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本文と画像とは直接関係はありません。
画像出典:全能せどり


普段の生活が続くと、それは今後に於いても同様にして長く続くことを知らず知らずの裡に、思い込んでいるという事は誰にでもある事でしょう?

 

ところが世間ままならずというような事が突発的に起こる訳です。

 

例えば、家族の誰かが大きな怪我をして入院した。親が倒れて、急に実家に帰らなければならない、それなのに手持ちのお金も少ない。あるいは、騙されてお金を失った。思いもかけないところから高額の請求書が来た、というような事です。

 

それらは、それをきっかけに、今までの余裕はないが平穏な生活が、大きく乱されるということに発展するのが通常のケースです。

 

■ それは突然にやって来る

そういうことは、全くの突然にやって来て、平穏な暮らしが乱される。一体どれだけの損失が出て、どれだけの費用が掛かるのかに怯えることが一番の懸念ごと。

 

それらの殆どは、お金があれば大きな問題に発展しません。

 

従ってたとえ、お金に余裕はないものの平穏な日々が続いていたとしても、油断は禁物です。こういう時にこそ貯蓄は行い、いざという時に備えなければなりません。

 

 

■ 貯蓄

住宅は多くの人にとって、人生で最も高価な買い物です。これは、世界のどこの国でも変わりません。また、車もそれに続く大きな出費です。それを購入する時には、現金で支払う人は少ないでしょう。住宅なら勿論ローンを組むしかありませんし、車も低金利ですので、ついローン支払いとなります。

 

これらの支払いは、何事もない普段の生活では、何とか回って行くものです。しかし先にも書いた通り、思いがけないことでの出費が必要となることは、必ずあります。その時のために、たとえ上手く家計が回っていても余裕は残しておきたいものです。

 

新築や新車でなくともいいので収入と支出がタイトにならないように、生活のレベルを抑える生活が必要です。

 

必用なちょっとした物の購入に迫られても、よく考えてみればそれをどれだけ使い続けるものなのか、あるいは今家にあるもので工夫すれば買わなくても済むのではないか。また、一時的な気持ちの入れ込みで買うだけではないのかということを考慮して、余り物を買わないことも大切かと思います。

 

これらはお金持ちになる方法ではありませんが、生活にお金の余裕の必要性を考える時、まあ大抵の場合、買わずに済ますことが出来ます。だからといって、人から借りるのは、それを傷めかねないこともあるので、やらないに越したことはありません。

 

 

■ サラ金

思わない出金が必要になったが、手持ちがない。こういう時には、つい手軽さゆえにサラ金に走ることも、仕方がないのかも知れません。これが元で、自己破産に至る人もいるのですよ。どうしてもという時には仕方ありませんが、直ぐに返済しましょう。するとまた、サラ金から借りませんかと来ます。まあ、直ぐ返すからいいか、と言って借りてはほぼ自己破産のルートですから、もうここは鬼になって借りないようにしましょう。なかなか辛いですが。

 

眇め(斜視)の女性の魅力

 

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新井アナ
画像出典:エントビ


眇め(すがめ)の女性は、どこということなく独特の色気があります。日本の女性アナウンサーやスポーツ選手中にもかなりいて、時々「おっ」と思うことがあります。外国の人では殆ど見かけませんが、色気を感じるのは日本独特の感覚でしょうか。

 

眇めというのはいわゆる「斜視(しゃし)」の事で、古文などにもそういう人が登場して、わたしと同じようなことを言っていますし、今も昔も独特の色気で人気が高かったと想像できます。

 

眇めでなければ、美人ではないけれどさりとて醜女でもあり得ない、という女性に特別の色気が出たりします。

 

 

■ どこに色気があるのか?

それがこれだと言えるようなしっかりとした状態の時を示すことは難しい。しかし、一つの条件としてはそのほとんどの場合は、両方の目がそうだというのではなく、必ず片方に限ります。

 

そして眇めの瞳は、外というよりは内側、即ち眉間によっているのも特徴です。また、目が普通の人よりやや細めであることもその条件の一つです。そして、その女性が、少し笑んだ時に顔を斜(はす)に見ると、その色気は際立つようです。また、光線の加減か眇め部分が照明や陽光に光ることも、それを強調するかに思えます。

 

そういう女性を、鼻から嫌う人もいますが、わたしは個人的に好きです。

 

 

■ 付き合っていた女性

わたしが、結婚する前に知り合った女性の一人に眇めの女性がいました。その女性は、少し垂れ目で目は大きい方でしたが、伏し目がちになった時に眇めは発現して、

『この人は色気があるな』

と思ったものです。その時の彼女は18歳わたしは、凡そ22歳くらいでしたので、かなり若い時からわたしは眇めの女性が好きだったのかも知れません。その女性はどちらかというと右目が外に寄る眇めでした。

 

 

■ クレオパトラ

絶世の美女とされるクレオパトラですが、彼女も眇めであった聞いたことがありますが、あるいは聞き違いか、記憶違いかも知れない。映画などで見る、クレオパトラは、そのようではなく、例えばエリザベステーラー位の美人しか知らないから。

 

 

 

人の意見を聞くな

 

 

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画像出典:lifeCLIP


現在日本は誰でも自分の考えや主張を述べることが出来ます。それは、大いに良いことですし、制約があってはならないことでもあります。

 

しかし、どのような高名でどのようなジャンルの評論家でも実のところは、先の事は分からないというのが本心です。ただ、これまでの歴史を見て、似ているところがあるなら、その結果を鑑みて、今後起こるかも知れない物事を類推して発言しているに過ぎません。勿論、その歴史の知識がある事は立派ではありますが。

 

■ チャート

それは、例えば株式や為替のチャートのようなもので、似たようなパタンから、それらは上がるのか下がるのかを類推しているに似ています。あくまで過去がそうであったから今回もそのように、あるいは物凄く似ている結果となるのではないかと。

 

これには絶対は無く、実のところ彼らでもそれ以上の事は全く分からないのです。そして多くの場合で主張や予想は外れます。それは、その時の国内外の社会情勢や経済情勢までもを勘案すると、必ずしも今の状況と似ていないことも多々あるからであります。

 

 

■ 従って

従って彼らは自分の予想が外れたとしても、何ら恥とも思わなければ、申し訳ないとも思いません。それは、誰にも分からないあくまでの予想に過ぎないという訳です。そして、多少の批判を受けたとしても「カエルの顔(つら)に小便」です。

即ち、次の考察すべき局面では何のおくびもなく、新たな主張や予想を出しています。これの繰り返しです。それが職業ですから、いつまでも前の主張や予想にこだわっていられません。

 

評論家等いうものは大抵がこれで、彼らを押し頂いて重宝がるのがメディアですから、始末が悪いと言うほかありません。評論家が、責任を取るなら、一年とその職についていられません。

 

 

■ 人の言うことなど聞くな

このように、彼らが主張や予想を外しても平然としている以上、その内容にあたふたとすることも必要ではありません。自らが考え想定を立て、そしてそれに沿って物事を進めて行くのが、最良であります。

 

評論家から友人や知人、親類縁者に至るまでたとえ聞いても、すべての人の意見は違う事でありましょう。人は、結局他人の事にそう関心はないのです。あるとすれば、自分に及ぶかもしれない利益と不利益が考えられる場合のみ。それも、自分の有利な意見しか発しません。

 

しかし、人は時には自分自身の考えに迷うことはよくある事です。

また、努力をすればするほど迷うものでもあります。そういう時でも、他人に答えを求めるのではなく、自らの考えの中で苦悩しながら決断するべきなのであります。

 

たとえ、間違っていたとしても。

 

そうでなければ、結局人の意見に振り回されたり後悔するしかありません。自分の考えと行動に置いてどのような結果が出たとしても納得がいくはずです。

人は、自分のやったどんなことでも許すことが出来ますから。

 

あたまを並べて謝罪記者会見

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画像出典:ニュースポストセブン

 

テレビを見ていますと、役所の職員や学校の教師あるいは有名企業の役職の人達が、

「ご迷惑とご心配をお掛けしまして、誠に申し訳ございません」

などと、頭を下げる場面に、遭遇することがあります。

 

それは、どの時の場合も殆ど同じで、長机に最低でも2人以上が腰掛け、神妙な面持ちで座り、司会者らしき人が傍らに立っている光景です。

 

その司会者は、

『それでは記者会見を始めさせて頂きます。わたしは司会の○〇です。まず、本日の会見に臨みまして、当該責任者の○〇よりご挨拶いたします』

などと、司会者の気楽な立場をいかんなく満足して、居並んでこれから謝ろうとする面々を、僅かではあるが、憐れみと優越感を持って紹介します。

 

 

■ 責任者

責任者は、待ち受けている多くの報道陣に気後れして、目もうつろながら、

『この度は、国民の皆様や関係者の皆様に、、、』

と切り出し、最後に

『まことに、、、』

で、これから陳謝しようとする他の連れの面々が立ち上がるのを待って、

『申し訳ございません』

と頭を下げる。その下げている時間は、どのように決定しているのかなと見ていて思ったりする。例えば、10をゆっくり数える間に決めているのであるかも知れない。10の場合は、

「じゅう」の「じ」となったところで頭を上げるのか、それとも「じゅう」の「う」を言いきってなのかなどと。

 

もし、わたしなら、もう少し長くした方が心象が良いかも知れない。

など思いながら犯罪者を見るような目で見ている。

 

 

■ 謝る理由

彼らは、心の中では、

『発注先の人間のチョンボなのに、何で謝らないかんのかいな』

と思っているでありましょう。年金の宛名間違いや、銀行のシステムトラブルなど、最近の役所や企業、教師などは、殆ど自分たちで何かを作ってそれを現場で使うというようなことはしません。

 

何何を今度企画する。そうすると大抵が、業者を呼びよせて

『こんな企画にふさわしい。アイデアを考えて来て』

と外注します。すると、業者が

『毎度おおきに』

と、もみ手なるのです。その業者が、あらぬことか差別や間違いをすると、発注者の面々は、

 

『ほな、阿保らしいけどまずは、謝っておこうか』

てな具合なのです。そして、謝った後は、業者を呼んで

『あかんがな。あんな企画では。恥かいたわ。しっかりしてや。今度同じようなことになったら、発注先を替えるぜー』

てな苦情を言って、それで自分たちの反省は殆どあり得ません。

業者の方も

『この度の事は、まことに申し訳ありません』

と平身低頭ふうに振舞うが、心の中では

『あんたらがちゃんとチェックせんからあかんのやろが?なんでも業者任せがいかんのや』と心でつぶやいたことでありましょう。

 

よって、再発は大抵起き、又謝るというパターンであります。

人の行く裏に道あり花の山

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画像出典:カプコン

「人の行く裏に道あり花の山」は株式投資をやっている人なら、恐らく大方が知っているであろう格言であります。要は、多くの人が挙って良いと言って売買するような銘柄には、利がないということでありましょう。むしろ、その反対側にこそ投資の旨味はある、と説くものです。

 

それは、確かに株式投資に限らず人生の生き方にでも当てはまりそうではあります。しかし、そういう事が可能なのは、それなりの目利きでなくてはなりませんし、何よりも人の行かない道を一人でリスクを取って歩む勇気がなければなりません。

 

■ その勇気

勇気だけで人と違う道を歩んでも、花の山に合うことは稀でしょう。むしろ、その逆で抜き差しならぬ状況に追い込まれることは必定です。やはりそこに人とは違う嗅覚があり、自分なりの目算は必要でしょう。それはどうするのか?

 

しかし、まあ大抵の人が最初の勇気が起きません。

 

■ ある逸話

誰かの小説だったか随筆であったか殆ど記憶に残っていませんが、ざっくりと言えば次のような逸話を読んだことがあります。非常に薄い記憶中での記述ですので、大幅にわたしの曲解や記憶違いがあるかも知れません。

 

ある男が、人生の歩むべき道を求めてある高名な人の元を尋ねて行きます。すると、門は開かれていて、そばに門番が立っています。

ある男は、中に通して欲しいと門番に申し出ます。しかし門番は

『お許しが出るまでは、ならん』

と答えます。ある男は

『それなら、お許しが出るまで待つ』

といって、何となんと何十年と待ちますが、お許しは出ません。しびれを切らして、

『まだ、お許しは出ないのか?』

と聞きますが、門番は常套句的に

『まだ、でない』

と答えるばかり。ある男も門にたどり着いたときは、若かったけれども、もうそこそこの歳になっていました。

 

ある男は、決心します。たとえ門番に咎められ様とも門の内に入って行こうと。そして実行しました。すると門番は、ある男を何ら咎めることもなければ制止もしません。

 

中に入ると、高名な人は笑いながら

『門はいつでも開いていた。入ろうと決心すればいつでも入れた。お前はその勇気を持たなかっただけだ』

と答えました。ある男が門にたどり着いた時から、勇気を持って問の中に入っておれば、それ程にも待つことがなかったのです。

 

■ 実際の話

人の行かない道や自分の思う道を勇気を持って進んで行く時には、この逸話のように人の斟酌を超えて行かねばなりません。「変わり者」「あいつは、阿保だ」と言われることをまずは覚悟して進まねばなりません。

 

それは孤独で、孤立無援かも知れません。

 

しかし、人生に生きがいや遣り甲斐を求めるなら、人と違う道をいやでもやるかねばなりません。その道に入るまでに、どんな些細な日常であっても、しっかりと平凡な生活というものを把握しそして、今いる道を鋭く観察して熟知し歩むべき道を熟考して置かねばなりません。そうでなければ、人と違う道を一歩入り込んではみたものの行きも戻りも出来なくなるかも知れません。

 

こんな時代でも、又、この先の時代でも生きがいを求めるなら多くの物を残念しなければならないのはいつの時代であっても同じです。

 

もし、生きがいを求めないなら、それはそれで構わない。人には、その人の数だけの人生はあるのですから。しかし、それならば、生きがいが欲しいと言わない事、求めないことで良いでしょう。

 

 

人の体の常在菌は100兆個

 

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画像出典:From ハウス


2005年に公開された「宇宙戦争」の映画は原作がイギリスの作家HG.ウェルズの同名の小説でした。わたしは、原作の小説もこの2005年公開の映画も拝見した。2005年公開の映画は、小説が発表されてから、幾度となく映画化されていたものの総集編のような形で、原作から少し変節しています。

 

2005年公開の「宇宙戦争」の映画にわたしは現在世界に猛威を振るっている「新型コロナウィルス」とをなぜか結びつけて、ある日の夜、眠りに落ちる就寝時の僅かな間、

「二つはちょっと似ているな」

と思った。

 

 

■ 「宇宙戦争

2005年公開の「宇宙戦争」では、火星から高度な文明を持った火星人の地球への来襲を材にした映画でした。アメリカの火星探査機の軟着陸などが成功している現在では、似つかわしくない内容ではあります。しかし、なかなかこれが面白かった。

 

あらすじは、火星人が高度な三本足の乗り物で地球を破壊し、人間の血液を吸い取り、赤いアメーバーを地上にはびこらせていく。地球防衛軍も応戦はするものの、いずれも敗退し、このままでは人類は最早なす術がない。

 

最早、人類は滅びるしかないと思われたその時、侵略者である火星人は侵略の手を止まった。その原因は、彼らには、地球にあるバクテリアへの耐性がなく感染死してしまったという結末です。

 

 

■ 新型コロナウィルス

現在、人類に猛威を振るっている新型コロナウィルスもやがては克服されるでしょう。人類はその誕生から今日まで、ウィルスと細菌との戦いでもありました。と同時にウィルスや細菌と共存する形で体に取り込みその耐性を高めても来ました。

 

ヒトは、産まれると同時に菌に感染する。胎内では無菌状態にあるが、母親の産道から、また外気や周囲の人間から、口や肛門に菌が付着するのが感染のきっかけだ。これらの細菌が、口腔内、皮膚、消化管に住み着くようになり、常在菌と呼ばれるものになる。口腔内にはミュータンス菌など約700種類が1,000億個以上、皮膚にはブドウ球菌、アクネ桿菌(かんきん)など200種類以上が約100万個、腸内細菌は乳酸菌、大腸菌をはじめ約400種類が100兆個以上存在する。そして、よい働きと悪い働きの両方をしながら、身体と共生している。」(出典:カラーダ)

 

まあ、この出典記事を見ますと、それは如実に物語っています。人類誕生期にははるかに少なかったことでしょう。それを進化と共に共存して来たのでしょう。

 

そして、新型コロナウィルスに関しても、抗体を持ちやがては克服していくでしょう。しかし、又いつの日にかこれに替わるウィルスや細菌が、人類の前に立ちはだかることとなるに相違ありません。これの繰り返しが未来にもあり続けることでしょう。

あわよくば、今般の新型コロナウィルスもそのように、人類と共存できるまでになってくれるといいかなと寝間で考えたのです。

 

 

■ 新型コロナウィルスのワクチン

アメリカが新型コロナウィルスのワクチンで世界をリードしたのは、偶然でもあり、必然でもありました。ワクチンの元である「mRNA(メッセンジャーRNA」の研究でノーベル賞を受賞するまでに至った研究者がアメリカにはいて、何十年物研究を重ねて来たのでワクチンの開発に先行出来たのです。

 

そのノーベル賞受賞があって日本でも当時は話題になったのですが、誰もそれを研究しなかったからワクチン開発に遅れを取ることとなったのです。まあ、アメリカの科学が世界をリードする理由はここにあります。

 

 

■ 期待のワクチン日本のワクチン

最近になってこれまでにないワクチンが日本で開発され、臨床に入ると報道されました。それは次のようなものです。(Yahoo!記事から抜粋)

ベンチャーが開発中“自己増殖するワクチン”とは

いま、注目の新技術を使った「次世代ワクチン」の開発が進んでいます。

それが、日本の創薬ベンチャー、VLPセラピューティクス・ジャパンが開発中の「レプリコンワクチン」です。レプリカという言葉は、複製とか模写という意味です。レプリコンワクチンは体内で自ら増える、自己増殖するワクチンということです。それが最大の特徴で、ファイザーやモデルナのワクチンの「進化版」とも言われています。

 

 

 

早く生産ラインに乗せて欲しいものです。

インドリという名のサル

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インドリ:筆者が作成しました



わたしが唯一持っている文学全集は、森鴎外だけで、ずいぶん高いのを買ったので、9割方は読みました。が、そのほとんどを覚えていません。しかし、例えば「最後の一句」とか「高瀬舟」などはその内容が痛烈で、何かの拍子に頭をぶつけた時のようなジーンとした痛みのようなものだけが今でも残っています。

 

しかしながら、その内容は殆どを忘れてもいるという、人が聞けば辻褄の合わないような記憶なのです。

 

■ エッセイ風

むしろ、一番の鴎外の作品で面白かったのは、カンガルーという動物の名前の付き方の顛末を書いた随筆です。

 

ある探検家であった人が、始めてカンガルーを見た時、ジャングルの原住民に、こう聞いたといいます。

『あの、両足で跳びはねて移動する生き物は何というのだ』

と。

すると、原住民はこう答えた。

『カンガルー』

 

『そうか、カンガルーというのか』

探検家はその生き物をカンガルーというのだと合点したのですが、実は原住民は

『カンガルー(おっしゃっている意味が分からない)』

と答えたというものです。

鴎外が書いたこの逸話は、このようなものであったとわたしは記憶していますが、それは大よその話で寸分違わないという訳ではありません。

 

しかし、わたしが、20歳ころに読んだ鴎外の随筆に、痛く感動して以来カンガルーという動物の名前の由来をそれであるとずっと信じてきたのです。が、実は正しくはありませんでした。別の説が出て来たようでしたが、それはわたしにはどうでも良く、鴎外の書いた説を信じて今日も疑わない。

 

 

■ インドリ

それでふと思い出したのが、別の逸話です。逸話というか、知る人ぞ知るという話に次のようなものがあります。

 

マダガスカル島には、インドリという原始のサルが生息しています(冒頭の画像)。そのインドリという名をこれまた原住民が、「ほら見ろ」「あそこに」(there he is)の意があるindriもしくはindri izyと叫んだのをピエール・ソネラが本種の呼称と誤解したことが由来とされています。

 

これも、「カンガルー」の逸話に似たような話で、実在するマダガスカル語はiryでありソネラが誤解だけでなく聞き間違えた可能性も示唆されているそうです。

 

こういう話は、他にも沢山あって動物だけでなく、物や自然にもあるに違いありませんが、暇つぶしにもってこいの対象ではあります。しかし、わたしには日々の生活に追われてその機会が殆ど無いことが、残念でなりません。

 

 

 

信長と森蘭丸、その間柄

 

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画像出典:安田 靫彦

 


織田信長の身の回りを世話をする小姓の一人に森蘭丸という人がいたことは、信長との関係において特殊であったという意味を付けられて、現在ではつとに有名です。

 

その特殊性のある関係の是非については、判然としません。決定的な証拠がある訳もありません。ただ、信長のつとにお気に入りの小姓であったことは間違いなさそうです。森蘭丸のずば抜けた才能に信長が惚れ込んでいたのでしょうね。

 

それを如実に伝える逸話があります。後年に、森蘭丸の才覚に後からつけられた逸話の可能性が高いのですが。時に森蘭丸は17歳前後でありました。

 

■ 信長と小姓のエピソード

ある時、織田信長は特に用もないのに小姓を呼びつけました。

 

信長『誰かある?』

「ある」とはいまでいう「いるか?」にあたります。

一人目の小姓『は、何か御用でございましょうか』

呼ばれて神妙にしている小姓に、

信長『いや、もう下がってよい』

一人目の小姓『はは』

小姓は怪訝ではあるものの下がります。

すると暫くして、信長がまたしても呼びます。

信長『誰かある?』

二人目の小姓『はは』

小姓は、参上して信長が何か言い出すのを待ちますが、信長は不機嫌に

信長『もう下がってよい!』

というのみです。一体何が信長の機嫌を損ねたか、うろたえながら小姓は下がります。しかし、信長は更に

信長『誰かある』

と呼びます。ここで、始めて森蘭丸が参上します。そして、床の上に落ちている小さなゴミを、拾い手中に納めますと

森蘭丸『殿、何か御用でございましょうか?』

信長の機嫌は一挙に回復して、

信長『下がってよい。それを拾わせたかったのだ』

というものです。

 

信長のような、短気ではあるが才気溢れる武将には、森蘭丸のような優れた気配りが出来る人間を愛さずにはいられなかったでしょうね。この逸話は、恐らく作られたものであったでしょうが、それ位の気配りが森蘭丸という人にふさわしいものであったのでありましょう。

 

■ 信長の小姓

信長の小姓には、3人がいたとされています。そのうちの一人が森蘭丸であったのです。小姓は先に書いたように、武将に使え身の回りの雑用を行う武士の事です。今では、そのような人は存在しませんが、非常に大雑把に表現するなら会社の社長の秘書と似ています。

 

森蘭丸は、信長の考えや行動、性格をちゃんと常々に観察し心得えいて、その行いにいつも対応できるだけの用意が出来ている人でした。信長が突然に何かに思いついたような突発的な発言や行動を、いわばお見通しでいる程の才覚がありました。

 

それが、信長には気に入っていたのです。

いわば「肝胆相照らす」仲であったのでしょう。それ故、信長との特別な関係を邪推されたのかも知れませんが、わたしはそうは思いません。

二人の仲には愛情は他の誰よりも強かったかも知れませんが、それは「プラトニックラブ(肉体を離れた精神的な愛)」であったでありましょう。

 

もし、信長と蘭丸とがプラトニックラブでの間でなかったら、恐らく早期に二人は堕落した仲に落ちた事でしょう。しかし、そうはならず、本能寺の変で信長と殉死して、その名は更に不動のものとなりました。

 

この逸話は、現在の社会の中に有っても十分に役立ち通用するところがあるでしょう。

 

 

「皆が持っている」に親は弱い

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画像出典:メリラボ

 

自分が人の親となった時、子が成長するにつれて、他人との比較をするようになるのは、自然なことです。物をふんだんに買って貰える子もいれば、殆ど買って貰えない子もいます。

 

今のわたしなら、何でも買って貰えない子の方が、子の将来にとって良いと思える。けれども、当の子はそれでは辛い。その物がどうしても必要という訳ではないのかも知れません。そうであっても、自分だけが持っていなければ、つま弾きにされるかも知れない。その物の話に加われない。

 

その時の寂しい気持ちは、分かりますよね。

それで、

『○〇を買って欲しい』

と子は言います。

『それを買ってどうするんだ?』

と聞けば、それに対する答えはありません。ただ、

『みんなが持っているから』

となる訳ですね。みんなが持っている、は本当でしょうか?子の複数人の親しい仲間の中では、少数派であるか、子の言うとおりにその中では、子一人が持っていないのかも知れません。

しかし、それを持たない子の疎外感を思う時、

『駄目だ』

とはなかなか言えないものです。目の前で涙ぐまれて親の目を見つめられると、自分自身が一度たりともそのような経験がないのであれば兎も角、たとえそれを買ってやることが良いことなのか判断の付かないまま、

 

『みんなが持っているのか、、、しゃあないなあ。お母さん買ってやるか?』

元より妻は、子に与(くみ)していますので、反対する筈もありません。

『大事にするんだよ』

という塩梅に、父は敗北します。

 

■ 母

母は優しい女性でありました。

当たり前かも知れないけれど、こと子供に対しては無限の愛情を注いでくれた。何かについて。

『みんなが持っている』

と言えば、自分が食うものも惜しんで残した、なけなしのお金でそれを買ってくれた。わたしは、そういう母の姿が子供心に痛く響いていたから、欲しいものがあっても買って欲しいと言ったことは、殆どありません。

 

その「みんなが持っている」物は大方の場合、なくても何ら不自由もなければ、必要もないものでありました。もし必要なものであっても何かで代用に出来たり、加工や工夫を凝らせば、同じものではないものの、十分に同じような機能が叶えられるものばかりでした。

また、流行りから廃りの間もそれほどの期間を待つこともなかった。

思うに、人と同じものを買って貰えなかった記憶は長く残り、買って貰えたものの記憶は殆ど残りません。そして、買って貰えなかったことによる、心の傷というようなものも殆ど残りませんね。

 

■ しかし

しかし、その物の廃りが来て子がそれらに見向きもしなくなった時、まことに我が身の敗北感は絶大なものがあります。それが、ちゃんと棚に陳列されたり、綺麗に収納されているのであればまだしも、乱雑に床や外に放置されていると、途端に腹立たしくなりますね。

 

まして、それで躓いたとか足に傷がついたとかになりますと、敗北感は途端に激しい怒りとなり、

『欲しいというから買ってやったのに、使ったら片付け位せんか!』

と叱らずにはいられません。

子にとっては、それはもはや遺物であり、粗大ごみに違いありません。

「今度は泣かれても、絶対に買ってやらないから」と決心する瞬間であります。

 

しかし、

また、新たな何かが欲しいと子がいい、

『みんなが持っている』

『みんなって誰だ』

『○〇ちゃんや誰それちゃんや、、、』

また、涙を流されじっと我が目を見つめられると、

『ええい、しょうがないな』

というお馴染みのパターンで負けてしまう。常套句にまたしても敗北しながらも、それでいいのだろうとは思うものの、何か釈然としない。

親というものはどこまでも愚かであります。

 

 

ブランド品にこだわらない

 

 

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画像出典:買取王子


車とか服装やそれに伴うバッグ、時計など高級品はいくらでもあります。ピンからキリまであります。

わたしの子や妻、あるいは友人や親類などの中にも、高級品を持ちたがります。フランスやアメリカ、イタリアなど有名ブランドが安いと思えば、それ程の苦もなしに買います。わたしは、生まれが貧しかったせいか、そういうブランドものを欲しいとは少しも思わない。

 

「いいものは、高い。しかし、いいものはいい」

とか彼らは言っています。それは確かにその通りで、わたしのような姿や形がちょっと良ければ、それでそれ程吟味もせずに買ってしまうのとは、だいぶんに違っています。価格と造り、ブランド力を念入りに検討し、あきれる位に長考した挙句に、懐具合と照合の末大枚をはたくと言った塩梅です。

 

■ 安物買いの銭失い

確かに、安い物には安いだけの理由があります。その逆も然りでありましょう。しかし、ブランドものの高級バッグを持ったとしても、服装や装飾品、靴などにもそれなりに統一性がないと、バランスがとれません。

 

すると、どうしてもあれもこれもとブランド品志向になることになります。それも結構お金の工面が大変かとおもう。それに、つける人の品性も大切かも知れない。そう思うと、思い出したように買ってみようと思う気持ちは即座に萎えて、

『もう、ええわ』

と思うのです。

 

■ そこそこの物

そこで、まあブランド品とまではいかないでも、それなりにしっかりとしたいいものを持てばいいかなと思うのですが、わたしはそれさえもそれほどこだわらない。旅行に行った先で出歩く時のバッグがあればいいなあ、と思えばどこかのスーパーのカバン売場でそれ程に見てくれが悪いのでなければ、それでいいのです。

 

要は、機能的に問題がなければ、何も気にならない。

 

そのバッグが買えた、自分のものとなり実際に使えるのだったら、それだけでわたしは満足してしまう。それは、遠い子供の頃に欲しくても買って貰えずに、恨めし気に見ていたころの記憶に結びついていて、その頃は、人が持っている同じものでなくても、取り敢えずはそれなりに機能や見てくれが整って居れば、買って貰えただけで満足していた気持ちと変わらないのです。

 

妻や子を載せて、アウトレットモールで車の中で時間つぶしをしている時にも、

『あの店の数々にどんな夢があるのだろう』

と不思議でならない。

 

『安上がりな人』

と妻はいつも少し蔑んだ目で笑う。